中国史コラム1997 11-12月分


戦国商城遺跡杉山節絶好調梁啓超と先秦史

中国史コラム目次


1997/12/26

梁啓超と先秦史

 最近、仕事で梁啓超のデータベース作成をしています。といってもまだ彼の著作の幾つかをunicodeテキストで入力しているだけなんですが。

 梁啓超については、知らない人が殆どでしょうね。彼は清末〜民国初期の人です。若い頃に康有為に学び、変法自強運動を唱えた彼の右腕として戊戌政変で活躍します。しかし、世界史で習ったように、これは失敗します。で、康有為師弟は日本に亡命するのですが、その脱出行に日本人が関わったという話は、今日ではあまり知られてないです。それはともかく、日本に来てから、梁啓超は幾つか新聞を発行して、自説の宣伝に務めます。
 この時基本として提示したのが「新民説」なんですが、これは、中国の諸問題の根本は封建専制政治であり、変法自強を敷衍して、その制度の打破を唱った物です。

 彼はその過程を説明するのに、「歴史を繙くとあ〜だ、こ〜だ」という論法をよく使います。また、『中国歴史研究法』『先秦政治思想史』等の歴史論文を書いていますが、その根本に彼の思想が含まれているのは言うまでもないことでしょう。

 まあこの辺は師匠の受け売りなんですが、この時に彼が定義した部分(梁啓超自身の時代観)は、結構今の常識と化しているんですね。戦国時代の思想(則ち諸子百家の位置づけ)なんてその最たる物だと思います。

 梁啓超自身は、ジャーナリストと政治家を足して二で割ったような人物ですので、その根本には政治的戦略性があり、それに沿った歴史の定義付けを有するのは、不思議でもなんでもなく、むしろ当然のことでしょう。

 問題は、今日の我々がそれを踏まえた上で、歴史のイメージを組み立て直す必要が在る事です。たとえは古いですが、「春秋時代は五覇の時代」という定義は孟子が始めたもので、実際の時代イメージとは異なります。

 過去に仮託して、現在を語るというのは、政治思想家の常套手段と言えるでしょう。

 結構私の専攻している先秦史ってイメージが固まったきらいが有るんですが、やりようによっては、まだまだアプローチ出来る、という処でしょうか。

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1997/12/11

◎杉山節絶好調?

 今年ももう終わりですね。年度末が論文の締め切りなので、泣きながら書いています。その他に私事でやることが多いので、結構多忙な状態です。あっ、年賀状も書いてないや。今回は、結構軽い口調で書いてしまった・・・。

 今回のネタは岩波講座 世界歴史11『中央ユーラシアの統合』です。ここの総論とも言うべき「中央ユーラシアの歴史構図」を、最近一般の方も知られるようになった、京大の杉山先生が書いておられます。氏は、「モンゴル時代史」というテーマで研究をしておられます。ユーラシア大陸が初めて「世界史」といえる統合状態を現出した15世紀、そしてそれを実現させた「モンゴル」という集団についてがテーマです。

 その従来一般的に知られた、モンゴルに対する歴史的イメージに対して、大きく修正を迫るその著作の数々は、朝日選書・講談社現代新書・中央公論社『世界の歴史』等でおなじみです。

 今回のものは、論文集と言っても差し支えないシリーズですので、一般書とは多少異なる杉山節が見られるかなあ? と期待しながら読んでいまいした。中身の大意は、上記書籍と変わりません。それを遡って概説的に草原史を語ってる形式です。

 初めの方は、それでもおとなしかったのですが、次第に見え隠れする杉山節。そしてトドメ? といってよいのは、「日本の宋代史研究者の宋代至上主義はけしからん! 」と言うくだりです。今までの著作でも。そういった節を伺わせる記述は散見していたのですが、こうまで時代を言い切ったのは、「また思い切った事をするものだ。」と感心しました。

 確かに宋代って、中国史上一つの画期といっていい時代なんですが、南宋なんてよく考えると、中国本土の片隅に位置しているだけで、半分は「金」という王朝が支配しているのを忘れてないかい? と思うことも有ります。山川の『中国史研究入門』上下という東洋史学生には、必須の本があるんですが、それの項目って、一応「宋元」になってますが、その実内容は殆ど宋代、遼・金・元は申し訳程度にしか載せてません。これなんかその象徴的なものなんじゃないでしょうか。
 ※しかも内容は、漢地支配についての事が中心です。漢文史料だけの研究だとモンゴルの一地方支配しか判明しないのに、それが国家全体に及んだと誤解しているのも、今の研究状況下では、陳腐化しているといっていいでしょう。

 「元朝=中国王朝ではない!」と言う主張は、他言語史料からアプローチする、最近のモンゴル史ならではのものです。我々のイメージでは「クビライ=中国皇帝を目指した」となりがちですが、実は中華皇帝の範疇を遙かに越えた存在だったのだなあ、と最近思うようになりました。

 私の専門は先秦史なので、「おまえは高みの見物でいい気分だなあ! 」なんて思われる方もいるでしょう。いやこれがどうして、結構あちこちで痛いところ突いてくるんですねえ。「世界史は孤立した地域の集合体ではない。必ずどこかで繋がっている」と言う主張は、先秦という古い時代とはいえ、結構考えさせられるものがります。

 例えば、戦国時代に騎馬戦方を北方民族から取り入れたのも、その一つです。遡って西アジアに起因する戦車戦法も、中国に伝わっています。いくら「地大物博」とはいっても、いろんな物が伝わって、取り込んだり、反発したりして、新しい物が出来、それをまた送り出す。世界史ってそれの繰り返しですね。

 私が主に研究している、楚国は、中原の諸侯からは、夷狄扱いされています。それが次第に中原と交渉を持つようになって、その結果、ついには項羽・劉邦という楚出身者が天下を握って、漢代の世界が形成される。そんなイメージを持ちつつ、研究を進めています。

題名 中央ユーラシアの統合
著者 杉山 正明///他
ISBN 4-00-010831-X
発行年 1997年
発行所 岩波書店(岩波講座 世界歴史11)

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1997/11/30

◎戦国商城遺跡

 11月分! といっても今回だけなんですが。
引っ越しも終わって、通信環境も回復、部屋はあんまり片づいていませんが、そろそろコラムを再開しないとまずいかなあ・・・ と感じだしましたので、久しぶりに書いています。

 さて、今回の話は『中国文物報』8/10日号に載っていたのを元にしています。

 戦国秦の商鞅(衞の人だから衞鞅とも言いますが)は、中国史には欠かせない登場人物の一人です。多分皆さんは、商鞅は秦孝公に用いられ、富国強兵を目指して大改革を行い、秦の強国化の基を開いた人物として、習ったと思います。
 ※商鞅の事績については、その事業が果たして彼一人の行いなのか、彼に仮託された話なのか、議論があります。この辺りのことは、うちの師匠が最近何か書いているようなので、楽しみにしています。

 閑話休題

 商鞅は改革の成功により、「商」という所に封ぜられます。「商鞅」と呼ぶのはこれにちなむんですが、これまで「商」について現在の陝西省の東南隅に位置する、現在の丹鳳縣である事は判っていましたが、戦国期の都市遺跡が確認できず、厳密な場所は現在まで未確認でした。

 陝西省考古学研究所が、去年の四月〜今年の五月にかけて発掘調査をした結果、丹鳳縣の西約2kmにある台地(南北1km、東西300m)が、丸ごと戦国期の商城の遺跡だと言うことを確認しました。「商」字が刻まれた瓦頭(瓦屋根の軒先にある丸い部分)が見つかった事が決めてとなったようです。

 この辺りは、春秋戦国期にかけて、秦楚が勢力下に収めるべく、何度か争った地帯です。というのも、商一体は秦が関中から南陽盆地に出る際、秦嶺山脈を越えて南陽盆地にでた所に位置し、秦の東南方面への出口と言えます。また南陽盆地は、楚が南から中原に行く際の玄関口であり、この一体は交通の要衝でした。そのため、春秋中期以降、一旦は楚の勢力下となったものの(春秋〜戦国にかけて楚形式の墓がよく見つかってます。)、戦国期になって争いがあったようで、結局秦の領有下になり、商鞅がそこに封ぜられたのでした。

 呂不韋が洛陽に封ぜられたのに比べて、商鞅はずいぶんと田舎なんだなあ、と思った人もいるでしょうが、「商」は当時の秦にとって、対楚関係から考えれば、非常に重要な地点であり、そこに商鞅を封じたのは、孝公の信任の表れだったのかもしれません。

 

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