|『論語』最古の写本(附:補遺)|大モンゴルの世紀|西村成雄『張学良』|最近の電脳事情(東洋史の場合)|
|浅野裕一『孔子神話』|一太郎Office8|歴史と気候|范仲淹|耶律楚材|何も解ってない?|
|中国史コラム目次|
昨日は、某所の研究会に行っていきました。そこで今王国維を読んでいるのですが、甲骨文がさっぱり判らなくて苦労しています。金文は昔ちょっとかじりましたが、甲骨は最近何とか基本的な文字が読めるようになった程度です。
其の状態なのに、来月は私の担当・・・ どうしよう (^_^;)
最近廻りの先生と話していて時々耳にするのが、「最近、何も解っていないことが解った。」です。自分の研究分野に関して、過去の研究史と突き合わせつつ、自分の研究を進めていると、時々そういう感慨に至るんだそうです。
私の分野は先秦史なんですが、この時代は考古学と数少ない文献資料とを組み合わせた研究が主流になりつつあります。
しかし、例えば考古学だけで何とか歴史をつなごうとしても、甲骨文は所詮占いの結果を・金文は個々の事例について書いてあるだけですので、通史的な流れを追ったり、全体的な把握をしたりする事は非常に難しいです。しかも現状で発見されている甲骨文は、殆ど殷代後期のものですので、殷全体の流れを見通すことも困難です。
また、戦争についてその可否を占った卜辞もありますが、当時の戦争の状況(目的・実際の戦闘の様子・武器の使い方)等は諸説有って、これも解りません。戦争については、春秋くらいまでよく解らない状態で続く、といってもいいでしょうね。
こんな状態を踏まえて「何も解ってない」という文句が出ることになります。1000ピースパズルの、50ピースくらいがバラバラに埋まっている状態だと思っていいのかな? (人によっては、50の数が違うかもしれませんが)
※昨年、マスコミが大騒ぎした、四川省成都郊外で見つかった「龍馬古城」ですが、なんだか聞いた話によると、例の基壇の下を掘ったら、後漢代の遺跡が出てきたそうです。最近の新聞でも「小さく」報道されたらしいですが、私は新聞とってないので見てません。どなたか御存知の形がありましたら、御一報を。
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「耶律楚材」と聞いて、どのようなイメージを抱くでしょうか? 「元の大宰相」「オゴディの懐刀」「野蛮なモンゴルに文化を与えた人」等でしょうか? 彼のついての説明として、『京大東洋史辞典』を繙いてみましょう。
耶律楚材:1190-1244 元朝創業の功臣。遼の東丹王八世の孫で、父は履。父祖の代より金に仕えた。学を好み博学で天文地理律暦並びに釈老医卜の説にも通じた。進士に及第し、宣宗南渡後は燕京にとどまった。1215年蒙古が燕京を陥れたとき、太祖チンギス=カンに仕え、以後重用された。19年西域遠征に従軍し、チンギス=カンの死後、オゴタイ即位にあずかって力あり、重用された。34年金が滅ぶと楚材は漢土の経営に尽力し、蒙古の政治的・経済的基礎をかためた。オゴタイの死後、皇后ドレゲネは回教商人アブドラフマンを信任して楚材を斥けた。著書は『湛然居士文集』14巻、『西遊録』1巻。
一般的なイメージは、大してこれと変わらないと思います。陳舜臣氏の『耶律楚材』は、この方向を極限まで追求した小説でしょう。私も、杉山正明氏のあの! 本を視るまではそう思っていました。
そう、あの本 とは、『耶律楚材』です。この本を読んだとき、目から鱗が落ちた! というよりは、う〜ん、やられた・・・ というのが正直なところでした。
杉山氏の説くところの耶律楚材は、中華文人の英雄ではなく、モンゴルの一書記、それも帝国全土の経営に関わる重要人物ではなく、モンゴルの一地域にしかすぎない、河北・山西の事務を担当する地方行政官(というのもおこがましい)にしかすぎなかったのです。
この指摘自体は、この本は学史的に振り子の揺り戻しという性格が強く、「ちょっと書き過ぎかな? 」と思うところもありますが、イスラム圏の史料も縦横に使い、中国に縛られず「モンゴル・ウルス」全体の視点から、耶律楚材の立場を捉えようとした氏の研究姿勢は一定の説得力を持って、読者に迫ってきます。細かいところは、実際に本を読んでみてください。
では、何故これまでの楚材像が形成されたのでしょうか? それが杉山氏の本の主題にもなっています。
氏は、『元史』耶律楚材伝の記述が、どの様な史料を用いて作成されているのかを説きます。それに拠れば、彼の文集・墓の前に刻まれた碑文(「神道碑」)等
が当たります。特に重要視されているのが、「神道碑」なのですが、これは故人の関係者が文章の上手い人に「故人を顕彰するようなものを作ってくれ」と頼むことが多く、結局、ちょっとした善行でも過大に記し、都合の悪い所は隠してしまいます(これは今でもそうですね。)。要するに、自画自賛的な史料を使って歴史を仕立てるのは、常に注意を要する! という事です。
これはたまたま杉山氏の専門である、モンゴル史の人物という理由で耶律楚材がやり玉に挙がったのですが、他の人物の伝を書く際、他山の石とすべき重要な指摘でもあります。
この本の残念なところは、杉山氏も書いているように、耶律楚材が中国統治に関して何をしたのか? を書く紙面の余裕がなかったところです。これではまるで「耶律楚材伝を斬る! 」という題名がぴったりくるような・・・
それを補うには、山川出版社『中国史3』や中央公論社『大モンゴルの世紀』等を読んでください。それを読んだ限りの私の感想は、漢地の宗教制作や、漢人軍閥・モンゴル諸王の中国領地の経営方針立案には関わったのかなあ? という印象を持ちました。
※ちょうどこの本が出た頃、陳舜臣氏の『チンギスハーンの一族』とかいう題名の連載小説がやっていました。当然陳氏の事ですから、自分の嘗て書いた本をベースとする耶律楚材像でしたが、杉山氏の本を読んだのかどうかは知りませんが、途中から楚材や彼の息子の扱いが尻窄みになったのは、何だなかなあ・・・
題名 | 耶律楚材 |
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著者 | 杉山 正明 |
ISBN | 4-89174-235-6 |
発行年 | 1996年 |
発行所 | 白帝社(中国歴史人物選8) |
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今はすっかり、「人より先に楽しむところ? 」と化している東京の「後楽園」ですが、この名園の名前の由来となった「先憂後楽(「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに遅れて楽しむ」 『岳陽楼記』)という言葉を後世に残した范仲淹。恥ずかしながら、彼がどのような事績を残した人物だったのか、「全く」知りませんでした・・・
この句は、朱熹の『名臣言行録』に採録され、人口に膾炙することになりました。唐宋八大家の一人欧陽脩なんかは、この句を范仲淹は若い頃からの座右の銘だったとしていますが、『岳陽楼記』自体は彼の晩年の作であり、欧陽脩の言を証明する記録はありません。
実際の彼は、官歴の殆どを地方で過ごし、宰相はおろか副宰相の位すら一年で辞任しています。「宋第一の名臣」とされる范仲淹はいったい何をやったんでしょうか? 御存知王安石は君主神宗との対話で、対西夏作戦に従事していた際の行動を、当時の人に比べ、それなりの情勢分析をして対処していたと評しています。また別な対話では、范仲淹はそれなりに聡明であっ たが、朋党を作ったから× とも評しています。対して君主の神宗の評価はこっぴどかったようですが・・・
彼の事績の代表的なものといえば、「地方教育の充実」「対西夏作戦」「君主への諫言」等でしょうか。私の印象では、それなりに時勢をふまえつつ、実際の問題に対処すべく行動をした人物かな? という所ですね。「諫言」のあまりの剛直さには、「頑固親父」「こいつがそばにいたらさぞかし疲れるだろうなあ」という感想も持ちましたが・・・
范仲淹は後の党派争いの基となる、主義主張を同じくする士大夫のリーダー的存在になっていた事は、北南両宋を通じて大きな影響を与えています。台諫という諫言ポストを使って、敵対勢力を失脚に追い込んだり、徒党を組んで騒げば何とかなるという風潮の嚆矢となったのは、良くも悪くも范仲淹の代表的事績でしょう。このような彼の生き方が、後世士大夫のモデルケースとなったわけですから・・・
※それに対し、宋と西夏の軍事力の実状や、国内の軍事制度等、それなりの情勢を踏まえて対処した対西夏作戦は、高校レベルの世界史でも宣伝して欲しいですね。
范仲淹が評価されるようになったのは、次代哲宗辺りからです。王安石の活躍していた当時、欧陽脩・司馬光など中央の官職から遠ざけられていた人物が中央に返り咲き、范仲淹が在世時、欧陽脩ら「慶暦の君子」と呼ばれていた人々のリーダー的存在だった為か、「当代の名臣」と讃えられることになります。彼の息子、范純仁が宰相になれたのも「親の七光り」が無かったと言えば嘘になるでしょう。
慶暦年間に副宰相として、国内政治の改革に志した頃は点は、それなりに後の新法党に繋がるところもあり、新旧両党派にも受けがよかったようで、彼の美名はますます上がり、気が付くと「北宋第一の名臣」となった次第です。
昔彼の部下だった文彦博が「虚名もあったが、それなりに才能や実務能力も持っていた」と評したのが、一番実状に近いかもしれませんね。
タネ本
題名 | 范仲淹 |
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著者 | 竺沙 雅章 |
ISBN | 4-89174-234-8 |
発行年 | 1995年 |
発行所 | 白帝社(中国歴史人物選5) |
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今、地球では温暖化が叫ばれていますが、昔の気候はどうだったのでしょうか?
それを調べるには、花粉を使うことが多いようです。古い地層から出た花粉は、当然その地層が形成されつつあった時期の気候を、ある程度反映しています(花粉からは、降水量などを十分掴みきれない恐れがあるようですが。)。例えばこの古気象学の中国における研究を見てみると、様々な情報が読みとれます。
中国が比較的涼しかった時代は、0-100年 300-600年 1050-1270年 1430-1550年 1580-1720年 で、これらの時代は、涼しかったのみならず、乾燥していたそうです。
これらの寒冷期には、四番目のを除くと、北方遊牧民の進入が激しかった時期とも大体一致します。これは気候の寒冷化のため、耕作可能な地が減少し、結果として農業生産力の減少→食糧危機が発生した可能性も指摘されています。
また、渤海や吐蕃の興起した理由も、その当時が過去最大の気候温暖期に当たり、それが国家成立の契機と成った可能性も指摘されています。9世紀末になると温暖化も衰え、それが渤海滅亡の一因とも考えられています。丁度その頃は、唐代です。気象の温暖化は可耕地の増加→農業生産の増加に繋がりますので、国家財政も比較的安定し、それが唐の政治的安定・人口増化の一端を担っていたのかもしれません。
ここ睡人亭でも採り上げている、後漢末〜三国時代にかけても、漢代の比較的暖かかった時代から、寒冷化の時代に向かう過渡期であり、255年には淮水が凍結した記録が残っており、また西晉初め280-289年の毎年春〜初夏にかけて、降霜が記録されています。
私が専門としている、先秦期は比較的暖かかった時代だそうで、『左伝』に楚の王様が、象を動物園的な施設で飼っていたという記述もあります。また、淮水以北にあまり見られない竹が、この時代は黄河流域で比較的よく見られ、これも当時が暖かかった証拠の一つのようです。
考古学的な異物では、現在その地域では自生しない、ウルシを使った木工品の発掘が陝西省・山西省などで確認されています。これは、その地域がいまより大体2〜3度温暖だったことを示しているそうです。
しかし、秦始皇帝兵馬俑に、かなりの厚着をした兵士の姿も見られるように、一概に地域が温暖化したのではなく、都市部と郊外の差や、局地的な寒冷化も考える必要性も指摘されています。
最近の歴史学では、他分野の成果も貪欲に取り込む必要があるのを痛感させられています。これからは互いの研究分野がリンクする、総合的なものも増えていくんでしょうね。通常私なんかがあまり目にする事の少ない、自然科学的学問のアプローチを見ていると、「ああ、こういうやり方も出来るんだ! 」と日々感心する次第です。
※私は今京都在住ですが、京都は俗に「一本大通りを上がると、気温が下がる」なんて言います。確かに、今住んでいる処と大学近辺では、冬場の体感温度が大分違うような気がします。盆地特有の気象かもしれませんが。
タネ本
題名 | 歴史と気候 |
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著者 | 吉野正敏 安田喜憲 編 |
ISBN | 4-254-10556-8 |
発行年 | 1995年 |
発行所 | 朝倉書房(講座「文明と環境」6) |
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題名だけ見ると、中国史とはあまり関係ないかもしれませんが、漢字処理に関して常々頭を悩ませている私にとって、コンピュータと漢字の関連は常々切り離せないもので・・・
で、表題のソフトを金曜日に買ってきました。一太郎といえば、御存知「自称? 国民的ワープロソフト」なんですが、今回隠れたウリとして「漢字を扱える数が増える! 」というのがありました。現在のJIS収録漢字数は、第一・第二水準併せて僅か6335字しかありません。しかも、中国史を扱う上で、結構重要な字が抜けているので(例:「トウ少平」の[登β]等)、皆さん外字を作ったりして苦労していたと思います。
JUSTSYSTEMのカタログ上の謳い文句は、「ATOK10から対応しているunicodeでは、unicodeの漢字で日本で使われる可能性のあるものを最大限拡充しました。従来のJIS第1・第2水準(X0208)6335字に加え、JIS補助漢字(X0212)5801字、更に大脩館大漢和辞典(通称:諸橋大漢和)にある約6000字を追加しています。」です。
これを合計すれば、大体18000字になります。これだけあれば、従来の漢字不足も解消だあ〜! とJUST社は言いたかったのでしょうが、実はそこに大きな落とし穴があります。実際unicode(ISO/IEC-10646)で規定されている、CJK互換漢字は二万語以上が規定されています。異体字の問題などあるものの、単純に考えれば「何字か削っている」事が想定されます。そこで、ATOKの「文字パレット」を見ると、簡体字部分がごっそり削られていました。一般的には使う必要もないと判断されたのでしょうが、私はわざわざ削る必要もなかったのでは? と思います。
※フォントの内容は簡体字部分を削る以外、Microsoft社提供のFar East Language Font Set として提供されている簡体字・繁体字フォントと変わらないので、そちらを使えば問題ないです。あれだと、明朝・ゴシック両方ともありますので。
実際にこれを使う場合には、「JS拡張漢字設定」で定義する事が必要です。といっても、インストール時に、拡張漢字を使う設定にしていれば、ほぼ問題なく自動でセットされています。
使い勝手ですが、文字を選択する場合、ATOKの文字パレットから「一文字づつ探して選択する」必要があります。unicodeや『大漢和辞典』の漢字番号で検索できる機能もありますが、unicode対応辞典や、『大漢和辞典』を持っていない人にとっては、使いにくいこと甚だしいです。私はこの検索には(株)エーアイ・ネット取り扱いの、『今昔文字鏡』という漢字検索ソフトを使っています。これを使れば、unicode、『大漢和辞典』の番号も検索結果に表示してくれますので、「8万字」を唱っているこのソフトの実力とも相まって、大抵これで間に合います。
※検索しさえすれば、単語登録も出来ます(これはGood! )ので、自分なりに使い勝手を上げることも可能です。
ただ、非常に不満なのが、一太郎8、三四郎8以外のアプリで使えない事です。Word97 Excel97 秀丸でも×。こりゃ、ていのいい自社囲い込みと採られてもしょうがないですね。動作保証の問題もあるのでしょうが、何かあるに違いないと勘ぐってしまいます。そのうちMicrosoftも対抗してくるでしょうが・・・
※ついでに三四郎8の使い勝手も少し。
Excelに比べて一文字毎にフォントの設定を出来るのは○。
最大行数が9999なのは×。
今一、Excelとのファイルの互換性がしっくりこない。
メモリが足りないと遅い(個人用のは64MB積んでいるので、まあ何とか実用的。)。
一太郎8は、相変わらず脚注を大量に入れると遅い。結局一太郎・三四郎ともに印刷ツールとしては便利なんですが、本業の分では、特にレスポンスに関して、あまりいい印象を与えてくれません。
相手方が一太郎Office8、或いはunicode対応フォントを持っていない場合には、文章のやりとりに注意する必要もありそうです。これは外字と同じと考えたほうがいいのかもしれません。それでも、外字の制限や、作る手間を考えたら、ずっと楽になるのは疑いを差し挟みません。財布の中身が許せば、買ってみるのもいいかもしれませんね。
※なお、私はJUSTSYSTEM社とは何の関連もありません。あしからず。
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今年の中秋の名月は、皆既月食と重なってしまうと言う非常に珍しい年なんだそうですね。
閑話休題。
孔子と言う人は、言わずもがなの有名な人ですね。中学の頃、漢文の授業で「学びてときにこれを習ふ。」なんてフレーズを憶えさせられた人も多いでしょう。これは『論語』の冒頭、学而編の出だしです。うちの大学は建物毎に漢籍から名前を見繕ってつける風習? があって、大学院棟はまさしくこの「学而」館です。尤も最近は結構怪しいのですが・・・
孔子という人の捉え方は、各人様々、正に十人十色といっても過言ではないでしょう。最近、東アジアの経済発展と儒教を結びつける説も出てきて、一度捨てられたはず? の儒教もまた復活の兆しを見せつつあります。で、儒教というのはいったい何なのか? という問いが出てきます。大体儒教=宗教と言えるのか? という疑問が、私には大学院で真面目に勉強するようになった頃からありました。そこで折に触れて孔子や儒教関連の本を読んでいたのですが、今一しっくりきませんでした。
最近冒頭の書物が出版され、「いろんな意味でおもしろい? 」という評判を聞いて、図書館で借りて読んでみました。感想は「確かにおもしろい! 」というものでした。今までの孔子像が砕け散りました・・・
この本の根幹を貫くテーマは「孔子は卑賤の身ながら、衰えた周王朝に代わり私(=孔子)が天子となる! 」という(挫折した)孔子の思想にあります。そして、道ならずして死んだ孔子の野望と恨みを、弟子や後の儒家連中がどう実現するか、というのが儒教神学の流であったと説きます。
話を貫くテーマが一貫している為、著者の意図するところは丹念に引用する資料と相まって、それなりに読み手に伝ってきます。ただ、これに対し私がどう捉えるかについては別な所です。私にとって興味のあるところは、孔子その人がどう生きたのか? という点です。この点で、著者の構成する「野望に満ちた孔子」像は、たとえそれが真実の姿だとしても、説得力に欠けていると言わざるを得ません。
著者は、孔子の生涯を再構成する際、主に『論語』『史記』孔子世家を用います。『論語』は兎も角、『史記』は漢代半ば成立の書物ですので、文献屋の私としては「孔子世家を構成する文章が、どの資料を用いて作成されたのか? 」についてのある程度の明確な回答を示してもらえない限り、「ちょっと・・・」と感じざるを得ないのです。
さらに言えば、『春秋左氏伝』の引用が一カ所も無いのも引っかかりました。テーマ自体が、著者の言うところの「正統的儒教神学」たる公羊家の流れを中心に追っているせいかもしれませんが、春秋時代の基本資料たる『春秋左氏伝』を使わないのは何故だろう? と疑問符を持たざるを得ませんでした。
まあ、孔子自身の思想は兎も角、宗教なんて「後に続く者がどう信じたか」が重要な問題になるので、「孔子には王になる野望があった」と、後の儒者が信じていれば、孔子自身の思想は(実は)大した問題になりませんが・・・
本の内容自体は、冒頭にも書いたとおり非常楽しく? 読めました。「こういった孔子の捉え方もあるのだなあ」と、感心することしきりでした。
浅野氏の説く孔子像もまた一つのバリエーションにしか過ぎません。他にも白川氏のシャーマン的孔子像・加持氏の葬送儀礼(や死生観)に基礎を置く儒教発生史等も参考にしてみてはいかがでしょうか?
題名 | 孔子神話 宗教としての儒教の形成 |
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著者 | 浅野 裕一 |
ISBN | 4-00-002905-3 |
発行年 | 1997年 |
発行所 | 岩波書店 |
以前から、キリスト教になる以前のイエス自身の運動とは何なのだろうか? という疑問があってそちら方面の本も読んでいます。今回の話はそれと重なるところもあり、興味深く読めました。西欧だとユダヤ教からのアプローチの他に、考古学を使った1世紀パレスチナ世界からイエスに迫る方法が盛んです。孔子に関しては、考古学的アプローチの方法は採られていません。孔子の運動自体が、考古学と結びつくきっかけがない性かもしれませんが、この辺りが西欧と中国との差なのかなあ???
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今日は少し毛色を変えましょう。
最近本屋のカタログを見ると、CD-ROMソフトの扱いが増えてきたようです。
当事者の方は実感があるかもしれませんが、本棚一本を占領する考古学雑誌のバックナンバーが、CD-ROMで出版され、たとえ10枚にしても本棚4/1に満たないスペースに収める事が可能な時代になりました。
これで、家族の白眼視に耐えていたのも解消! という所でしょうか?
近年噂になっていた、中国最大の漢語辞典である『漢語大詞典』のCD-ROMもついに発売になるそうです。
値段は本屋によって違いますが、大体五〜六万円程度でしょう。
書籍版より多少安く場所をとらず、検索も便利なので中文WIN環境があれば、かなり便利なツールですね。
※最もほぼ同時期に縮刷版が三〜四万程度で出ますので、これとの兼ね合いが・・・。
ほかにもあの! 『四庫全書』のCD-ROM化の話もあるそうです。嘗ては図書館に影印本があるだけですごい! と言われていたのに、CD-ROMで出るような時代になったんですね。私は個人的に『四庫全書』の字体が好きなのであれのFONTが出たら欲しいです。Dyna Lab Japan辺りが出してくれないかなあ。
※韓国では『李朝実録』のCD-ROMがあるそうです。値段が七〇万ほどするそうですが。
こんな話を学校である先生としていたら、「僕は『大漢和辞典』のCD-ROMが欲しい! 」と語っていました。
日本人には値段と相談ですが、こちらの方が受けるでしょうね。出してくれないでしょうか? > 大修館書店さん
国語・英和辞典には、CD-ROMで結構良い辞典が出ているのに、漢和辞典関連ではほぼ皆無なのはなぜでしょうね?
やっぱり需要が少ないせいかなあ。『新字源』辺り、出してくれませんかねえ > 角川書店さん
※芳名録のアドレスを見ておわかりのように、私はNifty Serveに入会しています。
中文電脳事情は大体ここで仕入れるのですが、一番活発なのはFREKI
MES18「パソコン人文学」でしょうか。
私も、時々発言しています。Niftyに入会されている方は、一度見に来てね!
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これも岩波「現代アジアの肖像」の一册です。
私のような戦後それも20年以上も経った後に生まれた人間にとって、張学良という名は、日本史の教科書の最後の方、日中戦争のさなか、突如起こった西安事変の際に覚えなければならない人名として出てきます。実際彼は日中戦争の大きな方向転換に関わった人物であり、特に共産党にとっては恩人の一人であるかもしれません。でも登場するのはそれっきりで、別にああそうかいな、程度の認識しかありませんでした。
私が次に彼の名前を耳にしたのは、1990年のNHKニュースで「張学良にインタビュー」というのを見たときです。第一印象は「へっ、まだ生きてたんだ! 」でした。当たり前ですが、もうすっかり老人になっており、昔日の面影はありませんでしたが。
張学良が政治史的に意味を持っていたのは、西安事変を頂点としています。日本が負けた後の国民党・共産党との接収合戦で張学良を使おうという意見もあったらしいですが、蒋介石がこれを却下し、政治的復権はついに果たされませんでした。結果論的に見れば、蒋介石は東北のシンボルともなりえる貴重な駒を握りながら使わなかったわけで、彼に対する警戒とも恨みともとれる行動が台湾脱出に繋がる一歩になったのは、歴史の皮肉なのでしょうか?
前振りが長くなりましたが、この本は西安事変に至る彼の行動を、「彼自身のアイデンティティ」をキーワードに読み解いた本です。軍閥の息子として生まれ、父の爆殺でその地盤を次ぎ、華北までも支配する大軍閥の長、日本軍のために地盤東北を失い、「亡国奴」と呼ばれ全国を転戦する日々、その中で「中国人」としての彼は如何に生きるべきかを考え、蒋介石に抗日を迫り、ついにはクーデターに帰結します。この政治的歩みは、正しく張学良自身のアイデンティティの揺れ動きも表していると、著者は語ります。蒋介石との関係においてそれが最もよく現れているのが「心情的には兄弟だが、政治的には敵であった」という述懐でしょう。
日中戦争を一人の中国人の心を通して見た著作です。日本側の物ばかりでなく、こういった中国側の本(このシリーズの2巻『蒋介石と毛沢東』も平行して見ると良いでしょう。)も参考にしながら読むと、より理解の助けになると思います。
※私が昨年西安に行った際、事件が起こった華清池でガイドの人に「蒋介石が居たのはどこ? 」と聞いたら、驪山の中腹辺りを指さしていました。
題名 | 張学良 日中の覇権と「満州」 |
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著者 | 西村 成雄 |
ISBN | 4-00-004398-6 |
発行年 | 1996年 |
発行所 | 岩波書店(現代アジアの肖像3) |
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中央公論社世界の歴史の最新刊(巻9)として、『大モンゴルの世紀』が出ました。その第一部を最近モンゴル史で御活躍の、京都大学杉山正明先生が書いておられます。
いやあ、この本も杉山節が絶好調です。今までの中で一番語調が激しいですね。読んでいてすかっとしました。この本の特徴は「モンゴルは世界を変えた! 」に尽きるでしょう。従来の暗い・野蛮・田舎者のイメージを払拭し、ダイナミックな共同体たるモンゴル・ウルスについて、第二部執筆の北側誠一先生共々、鮮やかに書き上げています。他にもいろいろ紹介したい事があるのですがスペースの都合で割愛します。是非一読してください。
中学・高校で習ったモンゴルの歴史ってどうでした? 大抵「チンギス=ハンの統一」→「元朝の成立」→「4ハン国の分裂」という順でしょうか。キプチャク・オゴタイ・イル・チャガタイの4ハン国が有ったと習ったと思います。しかしオゴタイ=ハン国なんか歴史上のどこを見ても無いです。オゴタイ=ウルスというオゴタイ一門の領地はありましたが、チャガタイ=ハン国成立に伴い吸収されます。又、オゴタイ=ウルスが有った頃にはフラグ=ウルス(イル=ハン)は未成立です。
これに象徴されるように、私のような中国史の門徒は、どうも中国に視点を置いて事象を見がちです。モンゴルにとって中国は東方領の一部であり、旧南宋領は一辺境に過ぎないことが杉山氏の他の著作を読んでいても思い知らされます。
今のモンゴル史の研究は中国文献資料のみを使う時代ではなく、ペルシア資料(『集史』)を使うのは当たり前、それに碑文や他の資料を使って論を組み立てなければ説得力を持たない時代になっているそうです。杉山氏は当にそれの最先端を走っているわけで、『集史』の日本語訳なんか出していただけたら非常に嬉しいです。
※この人の文中に「マルコポーロとされる人物」とか「耶律楚材、だれそれ? 」と言った従来の感覚をぶち壊してくれる記述が多く見られます。耶律楚材については陳氏の小説が有名ですね。杉山氏も『耶律楚材』(白帝社 1996)という本を書いておられまが、それの印象と比べると「は? 」と驚きを覚えます。
※昔、杉山氏が心酔しておられる本田實先生の授業を受けたことがあります(授業中しゃべっていて怒られましたが・・・)。
ペルシア・アラビア・・トルコ・モンゴルと縦横無尽に話を続け、その博学ぶりに感激した覚えがあります。授業も解りやすかったし、「ああ、授業たるものこうやるべきなんだなあ 」と非常に勉強になりました。
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近年、河北省都石家荘東北70kmの定県から中山懐王の墓が発掘されました。そこからは多数の竹簡が出土し、その中には『文子』『論語』の古抄本が含まれています。このほど考古学雑誌『文物』1997-5に釋文が載せられていましたので紹介しましょう。
元々『論語』は孔子の言行を弟子達が後に纏めた物で、学派毎に異なっていました。その代表的なのが戦国学問の中心地たる齊・孔子の地元たる魯の学派で、それぞれが用いる『論語』は便宜上「齊論」「魯論」と呼ばれています。また前漢時に孔子の旧宅から出土した「古論」という戦国時代の文字で記されていたとされるテクストも有りました。現行『論語』はその中の「魯論」をベースに「齊論」「古論」を踏まえた折衷的なものとされていました。
今回紹介する『論語』は中山懐王が紀元前44年の死去とされていますので、それ以前に遡るのは間違い有りません。報告者は懐王の幕下に当時著名な「魯論」家が学問の師として使えていたため、これは「魯論」ではないかとしています。他にも内容的に現行本と文字やテキストの篇数に相違があり、現行『論語』とは異なると思われますが、完璧な形で出土しているわけではないので、篇数云々等を論議し、それを証明するのはこれからの課題でしょう。
兎も角、『論語』の一番古いテキストであることは間違いないので、現行『論語』成立の過程を語る上で、貴重な資料が出たことは間違いないです。
※中山王といえば、かの劉備が御先祖様! とした中山靖王の墓も出ていますね。金縷玉衣で有名です。昔子供の頃に、出来立ての名古屋市立博物館特別展で見た覚えがありますが、朧気なので玉衣以外、あまり強い印象が無いです。
補遺:(1998/04/23)
昨日、中国に注文していた釋文を記した本が届きました。何簡か竹簡もあるのかなあと期待をしていましたが、それは一切掲載されていなかったです。これがないと、本当にその解釈でいいのかどうか、追い切れませんのでしばらくは、この本の釋文を信用するしかないようです。まあ正式な発掘報告書と共に出るんでしょうね。
中身は、釋文自体と、現行他本との校勘記が主です。発掘の経緯が簡単ながらも書いてあるのは有益でしょう。ただ文字の説明に相変わらず段玉裁『説文解字注』を使っているのは、なんだかなあと思いましたが。
題名 | 定州漢墓竹簡 『論語』 |
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著者 | 河北省文物研究所 定州漢墓竹簡整理小組 |
ISBN | 7-5051-0930-9/K403 |
発行年 | 1997年 |
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