(ちょっと改訂)
『春秋左氏傳(以下『左伝』)』は、春秋時代に関する最古の史料であり、且つ、もっとも多くの内容を有しています。従って、金文や竹簡等の出土資料が増大した今日においてさえ、根本史料としての価値は揺らいでいません。その辺りが甲骨や金文を始め、各種考古資料が研究の中心を占める殷〜西周期と違うところです。
戦国期の文献資料も少ないのですが、春秋期は『春秋左氏傳』のおかげで、戦国期よりもむしろ時代の流れを追いやすいのです。『春秋左氏傳』が無かったら、春秋期の根本資料は魯の年代記に手を加えたものにしかすぎない『春秋経』をベースとせざるを得ず、遥かに時代のイメージが貧弱となったことは疑いないでしょう。
それほど、『左伝』は春秋史の研究で重要な位置を占めていますが、その成立については不明な点が多く、今日でも議論の対象となっています。
『左伝』は基本的に「『春秋経』を解釈する論述(すなわち、伝)」という立場から書かれています。『春秋經』の書方云々については別に項を設ける予定ですが、要するに「『春秋経』の語句の使い分けには、孔子が様々な意味づけを隠しているのだ!」ということです。まあどこかの「と」な本の様な論法ですが、この解釈の仕方によって、幾つかの学派が生じました。有名なのは、公羊高・穀梁赤をそれぞれの始祖と伝える、公羊学・穀梁学ですが、『左伝』もその中の一つと考えられます。
一応建前として、『史記』十二諸侯年表序が伝えるように、「左丘明」が著者だと言うことになっています。この人物は、『論語』公冶長に孔子が尊敬する人物として挙げられています。『漢書芸文志』 はこれを襲って、左丘明が魯の史官であって、彼を作者としています。しかし既に朱熹がこれに疑念を示しているように、実際ははなはだ怪しい限りなので、現在では既に否定されています。
というのも、左丘明の作と言うことになると、孔子の先輩ですから、孔子と同時代(もしくは上)ですから、せいぜい西暦前六世紀後半〜五世紀中頃の人です。しかし『左伝』の記述には、前五世紀後半に亡くなった「魯悼公」という諡號(死後に送られた称号)が記されていますので、どう考えても矛盾が出てきます。従って左丘明単独の著述という可能性はあり得ないことになります。
上記のように、悼公という諡を記していますので、少なくともそれ以降に成立したことは疑いありません。しかしこれがどこまで下るのかについて様々な説があり、戦国中期(前四世紀)〜前漢末(紀元前後)までの幅があります。
何故にこの幅が生まれるのか、その理由は、経文の解釈部分の捉え方に原因があります。『左伝』は春秋期の歴史物語が豊富に含まれていますが、基本が『春秋経』を解釈する書物ですので、あちこちにコメント的な形で「君子曰く」等に代表される、経文の解釈を付しています。問題となるのは、「だれが何時このコメントを差し挟んだのか?」という点です。
劉逢祿など『左伝』の偽作を唱える擬古派は、『左氏春秋考證』で、漢末に劉がでっち上げて入れ込んだものと断じています。康有為も『新学偽経考』で「『原左伝』から劉がより分けて出来たものが現行『左伝』、残りが『国語』だ。」と述べています。
鎌田正氏は、『左伝の成立とその展開』(大修館書店)で、擬古派の説を否定しています。但し、ご自身は「左」というのに拘り、「魏の史官左氏某が作った」という説を唱えています。
今日では、『左伝』の成立は鎌田氏の言うように、戦国期の成立であることはほぼ指示されています。但し成立地域を巡っては、平氏のように、独自に復元した暦法の観点から、韓の成立を想定する人もいます(筆者個人としては支持していませんが。)。
元々、先秦期の書物というものは、それぞれの学派の叢書的な色合いを持っています。従って、特定の個人の著作もしくは、極短期間に書かれたものであると断定できるものは、ほとんどありません(例外が『孟子』『呂氏春秋』等です。)。例えばこれも建前として、『管子』は春秋齊の名宰相、管仲の著作と言うことになっていますが、これはむしろ齊の学者によって長い間かかって書き継がれてきた文章が、管仲の名前を借りてまとめられたものと考えた方がよいでしょう。『墨子』などもそういった傾向が見て取れます。
もちろんここで取り上げる『左伝』も例外ではありません。春秋期の歴史物語を集めたものをベースとして、それに「左氏学派」が少しづつ説を書き加えていったものでしょう。
『左伝』の文章を腑分け、すなわち文章を分解してそれぞれの要素を見極めていく作業について、日本では小倉芳彦氏が大きく三つに分けたのを嚆矢としますが、現在ではそれをさらに細かく見ていこうという段階に進み、それを元にした春秋期に対する戦国期の時代観なども探ってみようと言う試みがなされています。
成公三 冬,十一月,晉侯使荀庚來聘,且尋盟。衛侯使孫良夫來聘,且尋盟。公問諸臧宣叔曰:「中?行伯之於晉也,其位在三;孫子之於衛也,位為上卿,將誰先?」對曰:「次國之上卿s,當大國之中,中當其下,下當其上大夫。小國之上卿,當大國之下卿,中當其上大夫,下當其下大夫。上下如是,古之制也。衛在晉,不得為次國。晉為盟主,其將先之。」丙午,盟晉;丁未,盟衛,禮也。 |
例えば、上の例ですが、「冬,十一月,晉侯使荀庚來聘 云々」は、所謂事象の記事です。「對曰: 云々」は、言葉の形を採ったコメント的な記述です。「禮也」というのが、いわば総括的なコメントです。これが『左伝』の『春秋経』を解釈する部分といっても良いでしょう。
しかし注意していただきたいのが、「古之制也」という部分です。これはおそらく「コメント者からみた昔を意味する」とされています。従って春秋期からそれ以前を見たのではなく、コメント者の同時代、すなわち戦国期から春秋期を見て「当時の制度はこうだった」ということをコメントしているのだとしてよいでしょう(というか、このセリフ。『禮記』王制そのまんまなんですよね。おそらく儒家の間にそういった議論があって、それを反映しているのでしょう。)。その問答を承けた形で「禮也」というコメントが附されているのですから、既に「禮也」を付けた人物は、それいぜんのコメントを見ていることになります。これが『左伝』の重層的な構築の一端です。
『左伝』が多層的な構造を有しているという事は、その中に時代や学派の異なる様々なグループによって、様々な説が盛り込まれているという可能性を意味します。その中には、特定の人物や集団を顕彰した部分も紛れています。しかしそれらはあくまでその場でしか通用するものでしかなく、今のところ個人的には、「『左伝』が全体として、特定の国家や集団を顕彰する目的を持ったものと考えない方がよい」と考えています。
しかも、古い書物というものは、伝来ら手写の過程で、本来は注釈の形で書いてあっただろうコメントが、気が付くと本文の一部に紛れ込んでしまっている事もよくあります。それがひどいために、『水経注』のように原本の姿が解らなくなってしまう書物もあります。従って、上に述べたようなコメント群も、本来どこまで『左伝』の本体に含まれていたのかは不明な部分もありますが、注釈であった時より、本文として扱われている期間の方が遥かに長くなっている現在では、その区別を他の書籍と比べたり、用語法などで類推しつつ、慎重に扱うことが求められるでしょう。
『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』は、それぞれ『春秋経』の語句の使い分けに対して、「なんでここはこういう表現をするのか? 何故なら、ここではこのような意味を表すために、かくの如き表現をしたのである。」的な表記法を用います。対して『左伝』では「実はそれ以前に云々」等、経の文章が記されるに至った歴史的背景を説き起こして、経の文章を説明する場合が多くあります。その記述は『春秋經』に記された以外の情報をも豊富に含んでいますので、それが春秋期の状況を我々に教えてくれることにもなります。
おそらくこの部分は、左伝を作り上げた人たちが、それぞれの年代に少しづつ挿入していったものと考えられます。最終的に整理をしたのが、杜預の『春秋左氏傳集解』であり、今日我々が見ることの出来る、最古のテキストということになります。
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基本となるのは上に挙げたとおり、西晉:杜預(荊州方面軍総司令官。呉平定の中心人物の一人。『三國志』の作者陳寿が身を寄せていたこともあります。)の書いた『春秋左氏傳集解』です。というより、首尾一貫揃ったテキストはこれが最古のものとなります。現行のテキストは、全てここから派生しています。それ以前の形態は、一応経と伝がバラバラになった形であったとされています。『左伝』ではありませんが、早稲田大学が持っている国宝『禮記』抄本は、経伝がバラバラになっている姿を伺わせる貴重な例として有名です。
『春秋左氏傳集解』は、先人たる後漢の賈逵や服虔の注釈を参考にしつつ、『春秋左氏傳』とが如何なる性格の書物かを、杜預自身の視点から解き明かしていきます。南北朝分裂の後、『集解』は北朝で重んぜられ(南朝では服虔の注釈が重んじられました)、南北統一後の唐代になって孔穎達が『五經正義』を定める際、『集解』が採用されたことが決定的な契機となって、『集解』が現在まで残ることになります。
それを敷衍というか半ば強引なまでの養護をしたのが、『五經正義』に含まれる『左伝正義』です。『五經正義』にもベースとなった種本がありまして、『左伝』の場合には劉絃の『春秋述義』がそれに当たります。また清儒の劉文淇によって、『左伝正義』の文章の殆どが『春秋述義』の記述に基づいているという事を指摘しています。
さらに杜預注にも間違いや矛盾がありますので、後世例えば顧炎武の『左伝杜解補正』の様な書物が記されました。従ってまめに見る場合には、それらも参照する必要があります。
今日一般的に典拠として使われる『左伝』のテキストは、清:阮元による編纂の宋本を校勘した、所謂『阮元十三經注疏』所収の『春秋左氏傳正義』です。大抵の学術著作では、これが使われています。影印本として、台湾の藝文印書からの八冊本や中華書局の二冊本、上海古籍出版社のばら売り本などがありますが、中華書局本は元の葉をばらして詰めていますので、構造的に見難いというデメリットがあります。上海版はハンディなのがよい点ですが、少々装丁がもろいのと紙質がよくないので、これもおすすめできません。従って台湾版を持っておくのが一番良いでしょう。ちょっとお値段が高いですけどね。
別に日本でよく使われるのが、竹添井々の『左氏會箋』です。かれは下関条約にも列席するなど、外交官としても有名ですが、経学者としても、『左氏會箋』の他、『毛詩會箋』等も記しています。
この書物ですが、まず底本として、日本に古くから伝わる巻子本(『春秋左氏傳集解』。おそらく唐代の手抄本の系統を引く、鎌倉時代の写本。元々博士家清原家伝来でしたが、金沢文庫から紅葉山文庫へ所有が移り、現在では宮内庁書陵部蔵。)をベースに、西安に現在でもある開成石經や、各種宋本と比較して、信頼に足るテキストを作るべく心がけています。それに中国・日本の学者の解釈や自らの考えを、「箋曰」の書式で記しています。冨山房の『漢文大系』にも収録され、台湾からも影印版が出ています。すずらん通りの冨山房直営店が閉鎖されてしまったので、今では大型店か取り寄せでしか変えないと思います。まあ、影印版は台湾系の書籍店で見かけますのでそれでもよいとは思いますが。ただし海賊版には落丁乱丁も付き物なので、その辺りは覚悟して買いましょう。上記阮元刊本が台湾から影印版として安価な形で出回る以前は、日本でもよく使われていました。
ただし、この書の欠点は、箋の部分の出典を省いていることです。従って、これが先儒の説なのか竹添自らの説なのか、不明な点が後世の批判を受けています。一応、この出典を調べまくった研究者がいますが、簡単に見られるのは、『會箋』の引用書目一覧だけです。しかし、それでも非常にそこかしこに示唆に富んだ記述が多いのも事実です。従って、使い方さえ気を付ければ、現在でも有用な書物であることには変わり有りません。
その他現在使われる注釈書としては、楊伯峻の『春秋左傳注』(中華書局)が有ります。これは今人の説や考古資料などを踏まえ、簡潔かつ明瞭な注釈をするところに特徴があります。岩波文庫の『左伝』訳本も、これを解釈のベースにしています。現状では一番ポピュラーな『左伝』解釈本でしょう。再販されましたので、入手も比較的容易ではないかと。
『左伝』を読もうと思ったら、まあ上記三種類くらいは持っていても損はないでしょう。大抵の中国書籍販売店で手に入ります。他にも便利な書物は有りますが、それは別に紹介します。
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(執筆に際しての参考文献などは、後日載せます。)