中国史コラム1997 6-7月分


1998 6-7月分

青銅器の原料付:補遺東大明朝徐朝龍『長江文明の発見』盗掘の話

瑠璃河燕国遺跡河南省鹿邑太清宮遺跡朱然文物博物館竣工

浙江省印山大墓

中国史コラム目次


1998/07/27

◎浙江省印山大墓

 某出版社から共著で出す予定の、中国語情報処理本の原稿締切が、月末に迫っていて、夜中〜明け方にWebを回ることが増えてきました。しかし、調べれば調べるほど、昔書いた原稿や、リンクのページの間違いが見つかるなあ・・・

 来月の頭はトルコに行ってます。中国とはあんまり関係ないですが、昔からイスタンブールには一度行ってみたかったので、今から楽しみです。はやいとこ風邪直さんと・・・

 今回は雑文を三つばかり。

 『光明日報』七月六日号によるとに今年の六月下旬までに、浙江省紹興の印山大墓の発掘が行われました。1970年代には既に存在が知られていましたが、最近盗掘(ホントに最近多いですねえ・・・)の被害にあったため、急遽調査を行ったそうです。

 調査の結果、本墓は大体春秋末〜戦国初期の造営だとされています。墓室は墓道も含めて長さ34m、幅6mとかなりの大きさで、墓室自体は木椁を持っているので、国君クラス(=越王)の墓だとする発掘当事者の見解に先ず間違いはないでしょう。しかし、発掘過程で見つかった漢代の盗掘坑も含め、最近の盗掘でもかなり手ひどい被害を受けていました。

 実際の出土品からは、被葬者を特定する文字資料などが出土しなかったため、光明日報の記者はそこまで断定をしていませんが、日本の一部の報道では、本墓の被葬者を句践の父允常であるとする見解が伝えられています。一体何処からこんな見解が出たのやら?

 また、木棺の構造や椁の組み方や部材処理が独特であり、これも本墓を特徴づけています。その内、『文物報』か考古学関連の雑誌にもうちょっと詳しい開設が出るでしょう。

※補遺

 1999年2月号の『しにか』に、あの徐朝龍氏が読み切りの形で、この墓の紹介をしています。題名が「驚異的な越王墓の発見」という相変わらずの気合いの入った文章です。中身はコラムで書いたものと大して変わらないのですが、具体的な様子やスケールが載っているので、参考になります。写真もあるので、見てくださいな。

◎朱然文物博物館竣工

 『三國志』のコーナーで紹介している、呉の名将朱然のお墓について続報です。『文物報』六月七日号によると、本墓が発掘された安徽省馬鞍山市に、安徽省文物保護単位が1994年より博物館の建設を始めていましたが、1996に市当局が拡張工事のための投資を行い、この度それが完成しました。これまでの投資総額は200万元(日本円で三百万円円半ば)を越えています。

 なんでも、展示施設の廊下には、漢の画像石風に朱然の活躍を記した一角があるそうな。なんだか怪しい・・・

 しかし、呉ファンなら必ず行くべきでしょう!

 

◎河南省鹿邑太清宮遺跡

 1997年までに、河南省文物考古研究所を中心とするスタッフが、鹿邑県太清宮遺跡の発掘を行っていました。

 基本的には遺跡名を見て解るとおり、唐宋代の大型祭祀遺跡なんですが、そこから西に約500mばかりの地点から、殷末〜周初の大型墓も発掘されています。南北に墓道を持つ所謂中字形をしており、墓道も含めた大きさは、縦47.5m、横7.5という巨大な物です。墓室内は二椁一棺の構造で、男性一人・女性二人・男性の腰坑(被葬者の腰の辺りの字面を掘って、犠牲獣を埋める習慣。大抵犬が埋められている。)からは犬の骨が出てきています。男性以外は殉葬者とされています。

 青銅器(器68・兵器工具約20)・玉器(約80)・陶磁器(約100)を中心とし、その他大量の宝貝(威信財)や骨の鏃なども出土しています。青銅器も優品が出ていますが、特に玉器には良い物が多く、写真で見られる虎が正座をした形を象った玉器は、正に名品といえるでしょう。
 青銅酒器の出土が多いこと・腰坑の存在や・青銅器の形などから、恐らく殷の影響を有した墓ではないかと結論づけていますが、地方的な特徴も一部見られるようです。被葬者は銘文に「長子」なる文面が刻まれていたため、この人物であろうとされています。

 この墓から出土した文物で注目されるのは、楽器が幾つかあることです。特に管楽器である骨簫の出土は、簫自体が今まで春秋後期のものしか存在しなかったこともあって、非常に貴重です(打楽器などは殷墟でも見つかっています。)。先秦期の音階の決め方は、管楽器を基準とする三分損益方を使っていましたが(現物資料としては、春秋後期までこれは遡れます。)、この骨簫の音階の決め方がどうなっているのか、非常に興味深いですね。
 また墓層の特徴は殷との関連を容易に想像させますが、本墓以外のこれまでに発見された銘文の内容からして、長氏が西周に帰服していたことも明らかです。文物報記事は、殷代に地方を管領した貴族が、そのまま西周のシステムに組み入れられたのだろうと推測しています。

 出土地が、安徽省に近い淮水流域にあり、この地域は殷周期には「rei.gif (86 バイト)」国の在った地帯でした。この辺りは対東夷方面の前線基地だったと想定されますので、この推測は当を得ている部分もあると思います。この辺りに前線基地を置くことは、殷周にとって、更に奥地の東夷・淮夷集団から、威信財たる青銅器を作るための原料の銅鉱石を入手するためには、どうしても必要なことだったのですから、その流通ノウハウや当地に顔が利く? 長氏を周がそのまま取り込んだのかもしれません。

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1998/07/21

◎瑠璃河燕国遺跡

 祇園祭の山鉾巡行は、今年もテレビで見ていました。今年は比較的涼しかったですが、あの暑い最中を見物に行くのは、並大抵の覚悟では出来ません。

 題名の話を書くきっかけになったのは、『中国古代文明の原像―発掘が語る大地の至宝―』上巻を図書館で借りたことです。この本は前から目を付けていましたが、何せ値段が二万八千円! ちょっと高いので躊躇していたところ、図書館の新着コーナーにあったので、パラパラと見ていました。特に「帯出禁止」のシールも貼られていませんでしたが、B4とサイズいうあったので、受付に「借りられますか?」と聞きました。特に問題なかったようなので、借りてきました。持って帰ってくるの、重かったけど・・・

 なんでこれに目を付けていたというと、「カラーの大型図版で構成された本」だからです。先秦史をやっていると、どうしても発掘品に目を向けざるを得ません。またアプローチする際には、どうしても綺麗な図版を入手することが不可欠です。しかし、中国から出ている発掘報告書は、印刷の関係でどうしても状態が悪いし、結構白黒図版も多いので、困ることが多いです。その為日本の博物館で行われた展覧会の図録を入手したり、より綺麗な図版を求める作業はまめに行っています。

 この遺跡は、北京特別行政市房山区瑠璃河鎮の北東2.5kmにあります。遺跡字体は1960年代から知られていましたが、本格的な発掘作業は1972年から始まり、北京大学と北京市により、現在までも断続的に発掘調査が行われています。

 上記の本によると、現在まで発掘が行われた墓坑が約300基、車馬坑が約30基、城壁の発掘個所は4、発掘の総面積は4000m2余りにもなる広大な遺跡です。出土文物は、各種青銅器・土器・灰釉陶・玉石器・骨角器・漆器などで、総点数は一万点以上にもなります。この遺跡は現在までの調査で、ほぼ西周期の燕国初封地であると確認されており、1995年には、現地に博物館も開館されています(写真を見ると、畑の真ん中に建っていますね。これも世の栄枯盛衰の名残でしょうか?)。

 遺跡は、城壁に囲まれた城址部分と墓域部分に分かれています。

 この内、城壁部分は後世の破壊によって地上部分が失われてしまった個所も結構ありますが、それでも尚現在でも東・西部分の城壁など、数百メートル単位で残っているところもあります。この城壁が築かれた年代ですが、城壁から西周初期の殉死者或いは工事従事者と見られる墓が出土したことにより、西周初期のものであると推定されています。城壁の下には暗渠の状態で埋設された排水溝が見つかるなど、相当の技術を持って築かれたことが見て取れます。この辺りは河南省で見つかっている殷代の城壁と同じ様な構造ですね。城壁内部は、工房(或いは居住)区、宮殿区等に分かれていたことが、出土遺物の分布などから判明しています。ここからは西周期の甲骨が発掘されているそうです。

 墓域部分は城壁跡の南東にある稍高い地形に広がっています。現在確認されている分布範囲は六万m2以上という広大な面積になり、墓坑は大きさによって大中小の三種に区分されています。現在発掘された大型墓は三つだけですが、何れも長方形竪穴墓であり、二つは墓道を南北に持つ中字形を構成しています。これは亜字形の帝王墓より一ランク下で、通常諸侯クラスの墓とされています(時代が下ると、亜字形墓に諸侯が埋葬されるケースも増えてきます。)。墓室は何れも縦7〜8m、幅3〜5mという規模で、殷墟から見つかった婦好墓(武丁妻と推定されています。)より若干大きいクラスで、これも本墓群が諸侯クラスの墓を含む例証になります。また中型墓からも青銅器が出土し、これには後に述べる燕侯との関係がある内容を持つ銘文が鋳込まれており、おそらく卿大夫層の墓だったと想定されています。小型墓からも若干青銅器が出てきますので、おそらく国人クラスの墓もここには含まれているでしょう。纏めると、ここは燕国の支配者層の墓域であるとして先ず間違いありません。

 墓室自体は残念ながら盗掘を受けていましたが、幾つかの青銅器が出土しています。出土した青銅器の内「克罍」等には銘文があり、何れも同じ内容が記されています。銘文の内容は、研究者によって解釈が異なっているようですが、上記書籍に従えば王(多分武王?)が召公の息子(かな?)克に命じて「燕(実際の字は堰から土編を取り去った形です。)侯たれ」と冊命したことが窺えます。この様な形式(何処そこに封じて、何々を付随させる云々)の銘文は「冊命金文」と呼ばれますが、この銘文の内容は西周初期の冊命金文である以上に、研究者を驚かすに足る内容を含んでいました。

 先に書いたように、内容からすると「克」という人物は初めて「燕」に封ぜられた人物であり、初代の燕公としてほぼ間違いありません。『史記』燕世家では、初封を召公にかけていますが、『史記』のこの辺りの系譜は、その後の諸侯の系譜を記さない点など情報の欠落が明らかであり、信用するに足りません。これは召公が周に留まり代々卿身分となり、別に南燕があり、資料上北京付近の燕は北燕と言われるように、魯と同じく周公は周で卿身分、息子を魯に封じて公としたのと同じパターンとして良いでしょう。またこれはあんまり中身と関係ないですが、『史記』では召公を姫姓としていますが、白川靜氏が明らかにしたように、これは周とは別姓の集団でして、恐らく克殷の時に擬制的な血縁を作ったとした方がいいかも知れませんね。

 先にも述べたとおり、『史記』燕世家の系譜は共和期以前に遡る国君の系譜が見られず、おそらく司馬遷の時期に至るまでに散逸してしまったことが想定されています。その為初封の君が判明したばかりでなく、燕国の最初期の都城が明らかとなった点は、よく解らない点が多い戦国中期以前の燕国研究に対し、多くの材料を与えてくれます。恐らく初封の君も、司馬遷が燕と召公が関係を諸資料を参考にして、冒頭に書き記したと思われますが、燕と召公との関係を記す内容の青銅器の銘文が出土している事からしても、この伝承は一面の真実を伝えていると言えます。系譜自体は散逸しても、召公との血のつながりだけは伝承されたのでしょうね。

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1998/07/09/

盗掘の話

 最近、夙に暑いですね。京都は連日三十度半ば。洗濯物が干したそばから乾いていきます。これだと一番暑い時期には、河原町にある温度計が四十度を超すのも、現実的ですねえ。暑いの事態は結構大丈夫なんですが、京都は盆地という性もあり、蒸し暑いのが大変です。汗っかきの性分なので、汗が出ると結構色々と悲惨になります。

 閑話休題

 さて、歴史系の人は御存知でしょうが、毎年この時期になると、東大の『史学雑誌』という歴史学系としては権威のある雑誌が、その一年の歴史学の現状を報告する「回顧と展望」特集号を出します。私の論文もそこに載せられてました。初めてのことだったのですが、なんだか恥ずかしいですね。

 『史学雑誌』はその他にも、毎号入れ替わりで日東西各分野の最新論文の一覧を掲載しています。私の場合、新しい論文を探すのは、其れを逐一追うか、「回顧と展望」でもう一度見直す事が多いです。今回もその例に漏れず、読みたい論文が五本ばかりありましたので、コピーしました。今回は、その中の論文を読みながら思ったことを書いています。

 件の論文(というか、講演を原稿に書き起こした物)は駒沢大学の飯島武次先生の「西周時代の晋の遺跡」(『東海史学』31号)です。飯島先生は、中国考古学が専門の先生で、私が思うに実に手堅いお仕事をする人だと思っています。個人的にはファンです。今回の論文は、北京大学が1960年代からつい数年前まで発掘をしていた、山西省天馬曲村遺跡の北趙晋公墓群に関する講演が元になっています。その為、途中に「スライドを見てください。」旨の文章が入ってます。しかし同じ挿し絵がない! こういうときちょっと困りますね・・・ 予算の都合や版権の問題もあるのでしょうが、想像がしづらいのがネックです。

 北趙晋公墓群には西周期の幾つかの大型墓が見つかっていますが、現在の研究成果では、八号墓出土の青銅器銘文に「晋侯蘇」があり、これは『史記』晋世家『索隠』に「晋獻侯を蘇」とする異伝を参考にし、その他の状況を検討した結果。八号墓は晋獻侯その人の墓であるとされます。そこから墓群の時代配列を想定し、順に晉侯に当てはめ、結果、晋の三代目武侯から西周滅亡時期〜東周初期の文侯墓のそれぞれ夫婦墓とされています。西周期の諸侯の墓がまとめて見つかったことは、史料上非常に意義深く、また礼制や墓制の検討に際しても非常に重要な点を提示しています。

 この話自体は、もう数年前から『文物報』等に写真付きで掲載されていて、そう珍しい話でもないんですが、きちんと整理されてお話しされていたので、自分でもう一度頭の中に整理するという点では、非常に有り難かったです。個人的に興味深かったのは、最近盗掘され四条に出回っている、春秋期の山西省出土の青銅器に「晋公」の銘を持ったものが出ていることでした。これは飯島先生も「研究の課題として面白い」と仰っていますが、確かに興味深い物があります。

 実はここまでが前振りなんですが、今回の話はいまちょっと触れた「盗掘」に関する話です。なんだか「盗掘」というと遠い昔の話で、アッバース朝のカリフ(それっぽい表記をすると「ハリーファ」となるそうですが)、アル=マムーンがピラミッドに財宝があるからと、今の観光用の入り口を作ってしまったとか、項羽が始皇帝陵を大規模に盗掘しただの、曹操が盗掘専門の役人を組織した話など、真偽は兎も角、色々な逸話が伝わっていますね。中国では盗掘の話自体はそう珍しいことでもなく、民国になっても清の皇帝陵の盗掘の話があったりします。

 まさか現代では無いだろうなあ、と学生の頃には思っていましたけど、ある先生に、初めに話した北趙晋公墓盗掘の話を聞いたときには、正直驚きました。それも盗掘団を組織したのは、地元の警察署長の息子だったそうです。これじゃあ、「警備情報だだ漏れ」状態ですね。で、盗んだお宝は、当然? の如く当時イギリス領の香港を経由してあちこちに売られていきます。上記飯島先生の講演では、日本橋(電気街じゃなくて、三越のある方)の骨董屋で、どうも北趙晋公墓出土のやつらしい青銅器を見つけ、たまたま来日していた関係者の先生に見せたところ、本当らしいとの確認が取れたそうです。尤も、その後件の品物は、その先生が買い取ろうとしましたが、骨董屋さんが香港に送り返したそうです。

 他にも晋公墓から流れた青銅器は、結構あちこちで見られます。私が見たのは上海博物館でした。初めに見たとき、「なんでこれがここにあるかなあ。なんかと交換したんかいなあ? 」と不思議に思いました。飯島先生の原稿を見て、奇特家が香港で一括購入したのを、上海博物館に寄付したそうです(日本人ではあまり聞いたこと無い話ですね。 (^_^;))。台湾の故宮博物院にも収蔵されていることは飯島先生の原稿に載っていますし、風の噂では、日本の某大学も持っているのですが、やばくて公表できないそうです。

 先に挙げた『文物報』は中国の考古学専門の雑誌ですが、そこを見ると今でも盗掘が行われたり、盗掘犯に対する裁判所の判決が載っていたりします。改革開放のダークな面でしょうね。

 これは、別口から昔聞いた話ですが、彼らの手口というのは、有名な洛陽スコップというボーリング用スコップ(これは昔からあるツールで、現在では考古学の正式な発掘作業でも使われています。)で当たりを取る。まあ西周期のは兎も角、比較的新しいお墓だと、「神道碑」と呼ばれる個人の事績を記した石碑が建っていますので、これを目標にすれば簡単です。将に「お宝ここにあり!」という格好の目印ですね。今でも中国を車で走ると、畑の真ん中によくこの類の石碑を見つけます。

 で、目標を決めたら、先に開けたボーリング坑にダイナマイトを仕掛け、春節などのお祭りの時期を利用し(この時期だと、祭りに夢中ですし、にぎやかな音や爆竹が鳴らされることもあって、ダイナマイトの爆発音がカムフラージュされるみたいです。)、ダイナマイトを爆発させて盗掘坑を開け、お宝を盗むそうです。盗んだお宝は、香港か上海経由で売りさばくと。こうして貴重な文物が今日も世界の闇から闇へ消えて行くわけですが、どうして家には来ないんだろう???

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1998/06/21

徐朝龍『長江文明の発見』

 しばらく前から読んでいた、表題の本が漸く読み終わりましたので、感想を書いています。

 著者は、よくマスコミにも出ていますので、名前くらい聞いたことがあるかもしれませんが、四川の出身、京大で考古学を学び、四川大学の副教授→茨城大助教授→日文研助教授→京セラ上海支社長という経歴を辿った方です。一番新しい経歴はサラリーマンのように見えますけど、研究者の生活止めちゃったのでしょうかね?

 閑話休題。この本の内容は、表題通り「黄河文明だけが中国文明ではなあい! 長江こそ黄河に匹敵する文明圏だ! 」と熱き魂で語る本です。話の六割近くは、長江流域の旧石器〜新石器文化の紹介です。ここは遺跡の名前と出土状況が記述の中心なので、著者の専門が中国考古学であることも相まって、それなりに興味深く読めます。記述も下流から上流へと遡って記述されていますので、読む方としても頭の整理をしながら読むことが出来るので、これはいい配置の仕方でしょうね。

 しかしそれでも、著者の熱き魂はそこかしこに見え隠れします。う〜ん、どうにかして、長江文明のすばらしさをアピールしたいんでしょうねえ。「筆者は〜で無いかと推測する。だから〜な訳で、長江では黄河より〜であったんだ。」との記述スタイルが結構見られます。氏のコメント的記述は大概そうです。まあこれでも昔見た雑誌論文よりは大分トーンが下がっています。

 さすがに近年「ピラミッド発見!」とマスコミがかましてくれた龍馬古城の記述は、単なる基壇遺跡として控えめに扱っていました。結局あれ、だれが「ピラミッド!」って言ったんだろうなあ。恥ずかしい。 (^_^;)

 熱き魂がほとばしるのが、後半の部分です。特に三星堆の箇所は、著者が日本にこの遺跡を紹介する先鞭を付けたこともあり、特に紙面を割いて語っています。三星堆遺跡は、今展覧会もやっていますので、中原の青銅器とは違う、造形的に非常に興味深い青銅器の数々を御覧になった方もおられるかと思います。発掘の経緯は、この本にも(たぶん展覧会の図録にも)書いてあると思います。私も数点見たことがありますが、あれは確かに中原とは異質ですねえ。文明! とは大げさなことは言いませんが、確かに四川という地形が生み出した、一つの文化圏であることには違いないでしょう。

 しかし、これを何で安易に、既存の文献の記述とリンクさせて、蜀の王朝交代史を書くかなあ? あの説、学会の最新説云々と書いていますが、本当のところはどうなんだろう???

 この手の、古文献を無批判に引用、若しくは今風に「〜集団・部族」と読み替えて安易に引用する姿勢は、現在の中国の学会によく見られます。徐氏の本も、長江文明に対する熱き魂の部分はさておき、記述のスタイルそれ自体は、現在の中国考古学会のスタイルを踏襲しているとして良いでしょう。

 しかし、古文献がそのまま昔の事実を記述することなんて、実際奇跡に近いですねえ。そのまえに現存文献が、どの様な記述スタイル(それ以前の文献との引用関係・記述に当たっての思想等)を持っているか、きちんとバラバラにして検討する必要があります。これは日本史の分野ではほぼ常識以前の問題だと思いますが、残念ながら中国史の分野では、この方面のアプローチが余り進んでいないのが現状です。

 従って、徐氏の様な記述スタイルがあっても、仕方ないと言えばそうなんですが、安易に古文献を信じてはいけない! と『古史辨』学派の人たちが唱えた現状はどこえやら・・・ 金谷先生の言葉を借りれば、「行きすぎた釋古」の状態でしょうね。

 私がここ数年集中的にやってきた楚の話なんか、引用文献を見ておわかりのように、現在の中国側の研究をそのままダイジェストに纏めるとこうなりますよ、という一例です。確かに引用文献の記述内容に忠実なんだけれど、こっちから言わせると、引用文献自体に杜撰なのも入っているからなあ・・・ まあこの辺は研究者の見解の相違とでも片づけられてしまいそうだけど。

 あとがきで、時間がなかった云々と書いていますけど、同じ一般書でも考古学の現状を見るならば、林巳奈夫氏の本を読むべきでしょう。黄河流域との比較検討という面でも有意義です。この本の価値は、前半の長江流域における考古発掘の実体紹介や、中国の研究の現状を日本語で書いてくれている面に求めるべきでしょう。

 他にも、安易に「産業」「王国」等の語彙を使いすぎるのも、何だかなと思いました。どうも文脈から判断して、近代の「産業」的な言い回しがちょっと見え隠れしたのが気になります。それ以上言い出すときりがないので、今日はここらで。

 

題名 『長江文明の発見―中国古代の謎に迫る―』(角川選書290)
著者 徐 朝龍
ISBN 4-04-703290-5
発行年 1998年
発行所 角川書店

 

題名 『中国文明の誕生』
著者 林 巳奈夫
ISBN 4-642-08140-2
発行年 1995年
発行所 吉川弘文館

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1998/06/19

東大明朝

 以前から計画が進んでいた、「GT明朝(通称:東大明朝)」が正式発表されました。水曜日のNHK9時のニュースでもその模様を伝えていました。私はそれだけしか見ていませんけども、色々と興味深い物がありました。

 東大明朝は、現行のJISやUnicodeに疑問(穏健にこう言っておきましょう)を持つ人がプロジェクトの中心となって進めています。JIS漢字が7,000字弱の漢字セットしかなく、中国古典などには到底足りないのが実状です。これに対し、JIS未定義字の表記として外字や合成字、『大漢和辞典』等のコードを入れておく方法などがありますけど、東大明朝はいっそのこと、フォントを作ってしまおうという発想からアプローチしています。ある意味すごい力技ですねえ。東大ならではの規格です。

 具体的な構築の方針はこのサイトにあるようなので、それを見ていただければいいのですが、Windows・Macintosh環境では、9つのフォントセットを切り替えて使用する方法を採用しています。要するにMS明朝やゴシックというフォントセットを9つ作って、1〜9まで通しで字を填めていく方法です。別にS-JISと互換性をとる部分も作るようです。

 ※ニュースではMS-WORDを使って、森鴎外の[區鳥]を入力していました。「おお」! WORDでも使えるんか! 」というのが一番の収穫でした。

 現状の両OSのコード体系では当然そうならざるを得ませんが、こうなると、どうしてもプレーンのテキストファイルにした場合、フォント情報が一切抜け落ちてしまいます。まあしょうがないですけど。Wordや一太郎を使えば、まあその辺りは問題なく表記できますね。実際今でも私はUnicodeやBIG5で同じ事をやっています。おかげで外字は出土文字史料関係以外作っていません。

 また漢字検索用のDBも一緒に提供するみたいですが、どちらかと言えばATOKやMS-IME用の単漢字ファイル(コードで変換できるやつでも可)を作ってくれると、使う方にとっては有り難みがまします。

 この秋には正式に市販されるようなので、値段次第ですが(10万もしたら、貧乏人には買えません・・・ それにそんなに高いと一般への普及も阻害されますよ。9つのフォントセットを切り替えるようなので、せいぜい1万円台でしょう。薄利多売を願います。)、今後、フリーで提供される予定の「文字鏡フォント」と合わせ、注目に値するフォントですね。

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1998/06/12

青銅器の原料

 最近、ここのペースが落ちています。ネタはないことはないのですが、原稿の締切に追われていて、なかなか書くことが出来ません。毎回おいでいただいている人には、非常に申し訳なく思っています。

 今日、お話しするネタも、五月の連休明けくらいに見つけた話です。

 asahi.comをボーッと見ていたら、青銅器の原料について書いてありました。何でも鉛の放射性同位体の分布を調べて、現在の鉱山のそれと比較し、原材料の特定を図った、という内容です。
 それによると、雲南系と、河南・山東系に分かれていたみたいです。今展覧会をやっている三星堆の青銅器に含まれる鉛が、雲南系で、中原でも使われていた痕跡があるようです。しかし、西周以降になると、河南系が主流(というより、ほぼ全部)を占めます。

 そういわれて、以前見た三星堆の青銅器や、殷代のそれを見ていると、微妙に組成が違うのが見て取れるのがあります。私の個人的印象では、三星堆(雲南の鉛)等は稍白っぽく、殷のは白っぽいのと黒っぽいのに分かれています。これが鉛の作用に因るのか解りませんが、その辺りは科学史の本でも見ながら、勉強していくことにしましょう(今、ぼちぼち『中国科学技術史』東大出版会 1998 を読んでいます。)。以前ある先生とがこの青銅器を見ながら、「中原のとは組成が違うなあ」と言っていたのを思い出します。

 鉛の系統が在る程度追っかけられることが出来たのは、よくやった! と思いましたが、肝心の銅の系統は? との疑問が出てきます。西周金文には、淮水方面に出かけて、銅のインゴットを確保した記事がよく出てきます。金文を読む限りでは、淮水流域が銅の産地(若しくは集積地)だったのでしょう。其れより下った湖北省銅緑山遺跡は、春秋期に遡る銅鉱山の遺跡として著名です(今でも掘っているのかなあ? この遺跡が見つかったきっかけが、鉱山の採掘中だった。)。

 今回の記事では、殷が四川を経由して、雲南方面からも材料を集めていた可能性が指摘されたのが、非常に興味深かったです。それと三星堆勢力との関係は、安直に言及することは避けた方がいいでしょう。単なる集積センターだったのかもしれませんし、殷王から下賜されたのかもしれません。日本で三星堆関連の記述として比較的知られている、徐朝龍氏の説は、「邪馬台国おらが国説」と対して変わりません。本人は「大風呂敷を広げた! 」と言っているようですが、一般書とはいえ、あまり質の高い内容とは言えません。またこれは本を読んで、展覧会を見たら話すことにします。

補遺(1998/10/12)

 ずいぶん前に借りた日本史の本に、鉛同位体比法の話が載っていました。

 それによると、鉛の原子が重さの違う四種類の同位体の混合(軽い方から鉛204、鉛206、鉛207、鉛208)で構成されているという特徴を利用して、鉛の産地を推定する方法です。鉱山の鉱脈が形成された時期(新しいほど鉛の原子量が大きい、要するに重い。)よって、同位体比が異なるため、発掘された青銅器に含まれる鉛と、鉱山の鉛の同位体比を測定することにより、ある程度鉱山の目星がつくみたいです。

 その測定方法は、質量分析計なるものを使うそうで、私にはよくわかりません。ただおもしろうそうだとは思いましたが(単に実験好きなので。)。

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