曹操一族墓の資料を探していた時に、見つけました。
簡報程度の報告しか出ていませんので、とりあえずこちらから紹介します。
1967年4月、湖北省鄂城県、県城の西郊、西山山麓の鄂城鉄工所工事中に発見されました。
墓室は、前室・後室に分かれ、前室には耳室(副室)が付属しています。
全体の長さは9.30m、前後室を繋ぐ俑道は、長1.62m*寛1.46m*高1.44mです。
前室は横長で、長4.52m、耳室の大きさは大体1.5m四方です。
後室は長方形で、長4.37m*寛2.5-2.67m*高2.4mです。
後室には棺を置く為の土盛りがあり、長2.34*寛1.42m*高0.15mです。
※参考資料・画像共:「鄂城東呉孫将軍墓」鄂城県博物館 『考古』1878年3期(総156期)
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簡報によると、この墓はかなり早期に盗掘を受けたらしく、発掘時に残っていたのは僅か79件に過ぎませんでした。
その幾つかを紹介しましょう。
◎瓷器類
・院落(住居型瓷器)
大きさは4*5cm 高9mm 厚1.5-2.5mmです。
一見してお判りのように、壁に囲まれた住宅の形をしています。
正面には門があり、奥には楼閣らしき建物が見えます。
壁の四隅には見張り台らしき建築があり、おそらくこの壁は城壁に近い物だったのでしょう。
※当時、「烏壁」と呼ばれる、城壁で囲んだ小砦的な性格を持った豪族居館が知られており、その類かも知れません。
構造は、中庭を囲んで建物がある構造であり、当時の豪族居館の様子を伺わせます。
底には「孫将軍門楼也」なる六字が刻み込まれています(後掲の写真参照。かなり見難いですが・・・)。この事は、被葬者だとされる「孫将軍」が住んだ家を模したか、当時の一般的豪族居館のパターンがこのようであった事を示しています。
・房屋(住宅型瓷器)
合計五件出土しています。何れも10〜20cm四方程度の大きさです。
◎土器類
・禮器類
何れも青銅器の同型の器を模して作られています。形状から判断して、通常の料理器具と云うよりは儀式用のそれだったのでしょう。先秦時代では、土器製の禮器を埋葬されると云う事は、即ち被葬者の身分が比較的低かった事を表しますが、この時代ではどうだったのかよく知りません。
他に漆器類の残存も指摘されていますが、全体的に見て、東呉の元勲の一人朱然墓の副葬品と比較して劣ると思われます。この事は被葬者の政治上の位置づけにアプローチするための有力な証拠となります。
・俑類
人物・馬・猪・牛車等が出土しています。形がなかなか可愛いですね。
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先にも少し触れましたが、この墓の被葬者を考えるのに重要なのは、「孫将軍」という銘文です。
簡報によれば、副葬品自体は西晋の墓のそれと形状が類似し、東呉末の物だろうとされます。
この時期、鄂城近辺に駐屯していた「孫某」を探すと、『三國志』には孫鄰・孫述の父子の二人が知られています。
簡報ではこの内、時期的な相似から、孫述が被葬者だろうとしています。
副葬品は有る程度の地位を持った人物であることを示しており、簡報が挙げた両者は何れも、武昌方面を守った呉の重鎮であった事が『三國志』から判ります。
しかし、確実な年代と個人名が判明しない以上、安易に文献上の特定個人と結びつけるのは危険です。状況証拠から推定すると簡報の結論も頷け無くはないですが、やはりこれは「孫将軍某」の墓とすべきではないでしょうか?