中国史コラム1999 1-2月分


1999 1-2月分

『孔子の見た星空』『漢籍輸入の文化史』大黄河文明展

国家文物局のサイト開設モバイル『四庫全書』『左伝』の中身

中国史コラム目次


19990228

◎大黄河文明展

 京都文化博物館で今日から開催されている、大黄河文明展に行って来ました。河南省の河南博物院を中心とした幾つかの博物館の文物を展示してあります。東京・福岡と来て、京都は最後の巡回展となりますので、既に見た方もおられるかと思います。

 河南省といえば、それこそ古の中原ですから、古い物を中心に多くのすばらしい文物が発見・収蔵されています。今回展示されているものはそんなに多くありませんが、良いものを厳選して持ってきてあるようです。

 博物館の入り口からいきなり馬坑の展示をしてありました。多分入りきらなかったんですねえ。龍門石窟の実物大レプリカも有りましたが、それも同じようで。間近で見ると、当時の中国馬の小さかったことがよくわかります。横で展覧会全体のコンピュータ(多分Windowsのアプリをベースにしたもんでしょう。マウスカーソルがそれっぽかった)展示説明も行われてましたが、この辺りは最近の流行ですかね。会場内でも、レンタルでレシーバー貸してましたから。私には不必要というか、奥さんが「うちには生説明有るから要らない」んだそうで。

 展示会場の入り口を入ると、恐竜の卵が展示されています。「大黄河文明」とは違うような気がしますが、河南博物院が恐竜の卵の収集では、中国有数のコレクションを誇っているところからも、当然かもしれません。中に胎児の化石が入っているのもあるんでしょうね。きっと。

 後はお定まりの新石器時代〜清朝までの時代別展示です。中原の盛衰に伴い、宋以降が簡単に纏められている所を除けば、オーソドックスなやりかたですね。そういえば二里頭遺跡の発掘品がすっかり「夏」ということになってますが、まあ中共(これATOKで一発変換できないんですねえ。これも配慮ってやつですか?)では国家公認という事にそろそろなりそうですが、まあナショナリズムの発慮としては結構ですけれども、やっぱり文字史料がないとねえ。せいぜい「夏に相当する時代の遺跡」としか言えないかと。それとあっちの考古学会でも、二里頭自体の幾つかの時代区分で、夏と殷の初期の比定でちょっと揺れが有るんですが、この辺りはしょってますねえ。多分、河南省の偉い先生の、安金隗氏の説に従ってるんでしょうけど。

 それと奥さんに聞かれたのが「なんで商っていうの?」と。殷は自称として「大邑商」や「商」等を使ってますが、これは首邑の名前がそのまま国号となってます。で、周に滅ぼされて後、周が殷と称するようになるんですが。商の後裔であった宋は首邑を「商丘」と称してます。宋で作られた『詩経』の商頌も、その名の通り「商」ですね。そういう事例から、殷民は自称として「商」を使っていたことが伺えます。殷というのは蔑称で、周の金文にも出てきますし、それ以降の史料でも同様です。

 中国では商を使うことが一般化してますが、日本だと商を使うこともありますが、文献資料的には殷を使うことが多いです。日本の考古学では商を使うことが増えてきたような気もします。この辺りが日本の歴史学の大きな交流のなさをよく示しているかも(笑)。

 話は元に戻りますが、私がこれを見に来た大きな目的に、淅川下寺春秋楚墓の出土品が幾つか展示されていることがありました。確か三つ来ていたんですが、その中に論文のネタにもした王子午鼎もありました。報告書だと拓本(というより印刷だな)が汚くてよく読めませんでしたが、現物を見ると、さぞかし拓本がとりにくかったんだろうなあと、いう場所に銘文が鋳込まれていました。実は蓋も見たかったんですが、今回は来てなかったのか、展示はされていませんでした。あれは蓋と揃うとおもしろいのになあ。何せ、本体と蓋に書いてある、作った人の名前が違うので。これをネタに論文を書いたんですが、私の結論は、報告書を執筆した河南省文物考古研究所のスタッフの見解とは異なります。なんかあの報告書、自説に都合良く史料を扱っているので、ちょっと許せないところもありますが、ネタになったので良しとしましょう(笑)。

 その他にも一昨年出てきた、鄭国の宗廟遺跡出土品も来てましたね。器形での時代区分には全然詳しくないんですが、多分春秋中期〜後期前半のものでしょう。こういった儀礼遺跡の出土品、しかも列国規模のものがまとまって出てくるのは、非常に貴重なことです。何年かしたら報告書も出るでしょうね。しかし銅の組成がおそらく同時期の王子午鼎等の楚系の青銅器と違うような気がするのは、おそらく錫や鉛の含有量が違っていたからだと思うのですが、これは鉱山を押さえていた楚との違いかもしれません。

 前漢梁王のものとされる、金縷玉衣も展示されていました。奥さんは一緒に埋葬されていた玉豚がいたくお気に入りだったみたいで、帰宅してからも「ぶた〜 かわいい」と騒いでました。建前としては、諸侯王は銀縷のはずなんですが、劉備のご先祖様の中山王も金縷でしたねえ。そういえば。

 ああ、晉の印だ。官職が邪馬台国の使者と一緒だねえ。やはり西の夷狄は駝紐か。ふ〜ん。

 後はどうでもいいや! ってわけでもないですが、陶器の漢代の家の模型を見たり、三彩を見て「そういえば昔テレビで見た、サクセスストーリーの兄ちゃんの家の三彩が、どう見てもパチモンだったよなあ。」と言ってみたり、汝窯の出土品の青磁に見とれてたりしました。

 全般的には最初に書いたように、少ないながらも良い品を持ってきています。日本側のスタッフが選び抜いた成果でしょうね。おかげで河南博物院は難儀だったと思いますが。

 最後にカタログの感想をば。京大系の先生か。ふ〜ん。展示品の説明がすごいシンプルですね。個々の解説もそうですが、全般的な時代とかの説明がちょっとシンプルすぎるような。アマチュアの人わかりにくいと思うんですが。三星堆の気合いの入った解説と比べると、(内容は兎も角)見劣りがしますねえ。朝日と日経のコンセプトの違いですかねえ。わからん。

ファイル先頭へ


19990208

◎『漢籍輸入の文化史』

 以前、「『三國志』は何時くらいから日本に入ってきたのでしょうか?」というメールをいただいたんですが、その時には「手元に資料がないのでよくわかりません。自分で調べてみてください。」という返事を出しました。これではあんまりだなあと思って、漢籍の伝来関係の書籍を幾つかあさっていたんですが、これがあんまりないんですね。日中文化交流史の一分野と言って良いんでしょうが、どうしても仏教や美術品等に話題が集中してしまうのと、どちらかがやっているだろうと言う考え方が合ったのかもしれません。

 それでの経書や『史記』『漢書』等は、書誌学的な観点からの研究の一環として、伝本の研究なども比較的まとまったものがありますが、なぜか『三國志』ってその辺がすっぽり抜けているんですねえ。これが。三国志関係の研究所の便覧として結構便利な『三国志研究要覧』等にも、全然ありませんでした。というよりあの本、書誌学的な分野の項目立てが全くないというのも問題なんですけどねえ。『三國志集解』が有れば済むとでも思ったんでしょうか。考古関連でも漏れが激しいし。まあいいですけど。

 で、『三國志』がいつ頃来たかと言うことですが、その手の引用としてよく使われる、『日本国見在書目録』(藤原佐世 9世紀末頃成書)に載っていまして、また平安末期の藤原頼長の日記にも、『三國志帝紀』が載っており、インテリ貴族層には知られていたことが伺えます。しかし、正倉院文書等によく見られる『漢書』顔師古注や『晋書』に比して、少ないと言えます。その理由として、大庭脩氏は「『漢書』顔師古注は当時最新の注釈であったこと、また『晋書』は太宗御撰という事もあって、採り上げられたのではないか。」と推定しています。

 史書以外に、三国関連の人物が出てくる資料として、上記『晋書』や『文選』が挙げられます。従って、曹操・曹丕・曹植はよく知られていたかもしれませんが、逆に劉備や孫権はマイナーだったかもしれませんね。

 他にも、中国書籍が伝わっているという可能性を伺わせるものとして、律令や日本史書の文章に含まれている部分を見ることで、それが出来ます。ただしかし、この場合、類書の様な百科事典から引用した可能性も有るので、一概にその文章が含まれた書籍が伝わっていたと考えるのはちょっと危険です。十七条憲法の中には、経書や諸子の引用が見られるようですが、日中交流が再会されたばかりのこの時期、おそらくこれだけのテキストを入手できた可能性は低いでしょうし、宮中に中国でもあまり省みられなかった『墨子』や『管子』が入っている可能性は低いと思われますので、それぞれを読んだと言うよりも、何かの類書を使ったと考える方が適切でしょう。

 基本的に平安期によく読まれた歴史書は、『左伝』や『史記』『漢書』『後漢書』ですし、枕草子に「文はもんぜん」と書かれているように、『文選』字体はよく読まれていたようです。

 次の段階として、『三國志平和』や『三國志演義』系統の本が流入してきます。日本の漢籍輸入の主体となったのは、渡唐する僧侶達でしたが、彼らが仏教書以外にも外典と呼ばれる経書や史書の漢籍を輸入することもありました。『三國志平和』の世界唯一の版本は、日本の内閣文庫にありますし、江戸初期の林羅山の蔵書には『三國志演義』があったそうです。

 それからまあ、講談等の手段で徐々に普及していったと思うんですが、それが下地となって、最初の、そして現在に連綿と続く『三國志』ブームを引き起こしたのは、結局吉川英治なんですねえ。

 この話のネタとして借りてきたのが、表題の書籍なんですが、江戸時代の漢籍の需要に関する話題が豊富に出ています。とかく長崎貿易といえば、オランダ関係が目立ちますが、実際の輸出入ともに多いのが、中国関連なんですね。実際、キリスト教関連で禁書になったのは「漢訳されたキリスト教文献」ですし、新井白石が長崎貿易統制を打ち出したのは、対中国貿易での銀流出に対処するためでした。

 なぜ、こういった側面がおおっぴらに採り上げられなかったのかと言えば、大庭氏は「明治以降の西洋偏重、中国蔑視政策のおかげ」と書いていました。そういう原因も有るんでしょうねえ。だから資料を見るときにも注意しなければいけません。珍しいからこそ、特筆され、当たり前のことは記録すらされなかったりする可能性もあったこともあるんでしょうね。でもそれを証明するのは、想像力ではなく、考古学や他の資料を駆使してじゃないと、説得力がありませんので。適当な思いこみで書くと、結局「卑弥呼は宇宙人だ!」という本が出来上がることになります(笑)。

題名 『漢籍輸入の文化史―聖徳太子から吉宗へ―』
著者 大庭脩
ISBN 4-87636-143-6
発行年 1997
出版 研文出版(研文選書68)

ファイル先頭へ


19990131

◎『孔子の見た星空』

 以前のコラムにも書きましたが、『禮記』を読んでいて、どうしても緯書について知っておく必要に迫られました。緯書自体、中国思想史の中で、余り重要視されていなかったこともありまして、概説書などは少ないのですが、まあぼちぼち読んでいます。

 そこから派生して、中国の星座についても知っておく必要が出てきましたので、余暇にでも読めそうな書物を適当に図書館で見繕っていました。今回紹介するのは、そんな中で見つけた本です。元々本の存在自体は知っていましたが、まあ買うまでも無かろうと言うことで、ほっておいたものです。

 とりあえず借りてきて読んでみました。作者の方は理工系の先生で、実は天文も漢文も御趣味でやっておられるようです。従って普段から漢文資料をいじっている私から見れば、『続資治通鑑長編』と『続資治通鑑』の違いを解っていないなあとか、典拠にとしてあまりほめられない『唐詩選』を使うなど。ずいぶんといい加減なところもありますし、これって孫引きじゃねえか、と思うところもあります。まあこれは仕方ないですが。その辺りは、自分で補えば済みますので、突っ込むだけにしておきます。

 表題の孔子の見た空、実は序章だけだったりします。う〜ん、なんだか詐欺みたいですが(我ながら失礼な言い方ですねえ。)。一応話の掴みみたいになっていまして、そこから天の北極に話が移り、中国の星々へと話が進みます。副題に「古典詩文の星を読む」とありますが、これがほとんどの内容を表しています。表題は宣伝用の「おおいたち」というところですね。よくある話ですが。

 この本のコンセプトというか、内容なんですが、ASCII出版局から出ているStellaNavigator for Windowsを使って、それを参考にしつつ漢詩文に出てくる中国古代の日月星の世界を見ようと言うものです。

 おおざっぱに言えば、従来の解釈を、上記ソフトを使って、実際の天文状況を確認しつつ、間違いを正していくという形が採られ、その中で基本的な用語なども説明されていきます。

 これを見ていると、「偉い先生でも、分野違いのことだと、疎いものだなあ。」ということに納得させられます。要するに、上に書いた典拠云々と全く逆のことです。「この先生は、北辰は北極星のことだといっておるが、この時代、天の北極に北極星に該当する星なんぞないんだよ!」というはじめの掴み、結構気に入ってます。ややこしい計算式で煙に巻くより、ソフトによる再現画像で説得力を持たせるやり方は、いけているかと思います。また「まちがっている」と出してくる訳が、有名=偉い先生が書いているものが多いので、なおさらです。これを私が学会でやると、後で偉い目に遭いそうですけど。

 これもコンピュータを利用した研究と言っていい部類なんでしょうが、多分こういうのを見せられても、納得してくれない研究者もいるかもしれませんね。

 私の大学院の先輩で、星のことをやっている人がいましたが、修士論文で数式を大量に使った、東洋史とは思えない論文を書いたため、先生方から避けられていました。あの当時、充実した天文ソフトが有れば、図を使ってもう少しビジュアル的に出来たのかもしれません。最もそのときには、そのソフトの使えることを納得して貰う必要が有りそうですが(爆)

 それなりにおもしろく読めますが、漢詩が多いのと、文章のスタイルが単調なので、最後には飽きてきました (^_^;)。漢詩に限らなくても、天文のデータならそれこそ山のようにあるのに、データを揃えられない&一般向けと言うことで、漢詩に絞ったため、ネタが切れてきたんでしょうね。だんだん無理が出てきたような気がしました。参考書を見ると、そんな気がしました。まあその辺りは専門書に頼ればいいので、採るべき所だけ採ればよいでしょう。

 というわけで、データとして物足りないとか、記述がちょっとくどいところもありますが、基本的な所は押さえてありますので、中国の星の世界を知る入門書としては使えると思いますよ。まあその辺りは、みなさんそれぞれが判断してください。私はそれなりに役に立ちました。

題名 『孔子の見た星空―古典詩文の星を読む―』
著者 福島久雄
ISBN 4-469-23131-2
発行年 1997
出版 大修館書店

ファイル先頭へ


19990121

◎『左伝』の中身

 火曜日に『しにか』二月号を買いました。元々卒論で軍事関係のことをやっていたので、特集が「古代中国の兵法」であるのを見た瞬間に買ってしまいました。

 ざっと読みましたが、まあ一般向けの本ということもあって、例えば歴史群像などの記述に比べてそう変わっているところは無いですが、専門柄、平氏が何を書いているのか興味があったので、注意して読んでみました。

 細かい内容は、実際に本文を読んでいただければいいかと思いますが、「春秋戦国の戦争や兵法の事が書いてあるに違いない。」と思った方。大間違いです。そういった内容ならば、歴史群像によく書いておられる来多村氏の方が慣れているでしょうね。

 で、何が書いてあるかと言えば、春秋時代研究の根本文献たる、『左伝』の腑分けに近いものです。春秋には孔子が微言という言い回しを変えた表現で、秘められた内容を伝えている、という解釈学があります。これは春秋の解釈学としては、基本中の基本なんですが、平氏は『左伝』にもその存在を認め、研究の成果を利用しつつ、ちょっとだけさわりを書いています。

 まあ、この中でもよく知られているのが、「凡そ〜」と凡例を述べる部分や、「君子曰く〜」とコメントを書いている部分なんですが、それ以外にも氏は、微妙な言葉の使い分けを微言として挙げています。

 氏の書いておられるように、春秋期の研究材料としては、こういった部分は確かにじゃまです。しかし、戦国期の人間の考え方を知る上では、非常に有用な部分です。タダでさえ材料の少ない戦国期の研究に、最近こういった材料を積極的に評価しようと言う動きがあるのも事実です。例えば、「昔は〜だった」という記述が『左伝』には数カ所有りますが、それはコメンテーターが書いた時点での昔であって、春秋時代のから見た昔ではありません。しかし、コメンテーターが、昔をどういう時代だと考えていたのかが解ります。

 自分で細かいところまで見ていないのでなんですが、確かに『左伝』では、同一の事件で言い方を微妙に変えたり、国の称号が変化したりすることがあります。おそらく『左伝』の出来てくる過程で、何人ものコメンテーターの文が入り込んだんでしょうね。しかし、これを微言という形でくくってしまっていいのか、ちょっと疑問な事は疑問です。複数の資料によって、当然表記が異なっている可能性もありますしね。こう言ってしまっては何ですが、平氏の春秋学なんじゃないかなあとも、勘ぐったりします。研究会出ていないので、実際の論証過程が不明なので、この辺りも今後の論文を待つことにしましょう。

 というのは、氏は「『左伝』は韓で成書された」という結論が既にあるわけで、上のような考え方も、それを証明する手だてとして使われている節があります。この辺が私の気に入らないと言うか、引っかかる点ですね。

 両方のアプローチがたまたま一緒になるならともかく、初めから結論ありきだと、ちょっとなあ。と思う次第です。晉楚の記事が豊富だから、その両方の情報を満たす韓で出来た可能性が高い(本当は暦など、もっと色々条件が有るみたいですが)というのは、あまりに短絡的です。『左伝』で一番情報量が多いのって、結局魯なんですけどねえ。楚の材料って、自分で見て解っていますが、それなりに有るけど、少ないぞ。しかも鄭に関係した記事って、結局事実の簡潔な羅列的な記事が多いし。

 ネタとしては可能性が大きいけど、ベクトルがかかりやすいネタですねえ。私のけちも、既に自らの思いこみが、かかっていますし。まあ、今後の展開を期待しましょう。

ファイル先頭へ


19990120

◎国家文物局のサイト開設

http://www.nach.gov.cn/

 新年早々、我が家には恐怖の大王が吹き荒れております。まあ電化製品が壊れること壊れること。壊れたモノはゴミ捨て場へ、それがうん千年経つと考古学者にとっては、大事なお宝になるのだから不思議なものです。

 で、中国の考古学の総元締めが、中華人民共和国国家文物局なんですが、ここが最近サイトを開設しました。政府系のサイトは日本や台湾でもありますが、日本の文化庁ってサイト開設してたっけ?

 トップページのタイトルが「NewPAge:2」というのが何となくほほえましいというか、はっきり言って間抜けですが(笑)、内容はまだまだ完成途上といったところでしょうか。それでも結構見所はあります。

 例えば、前年度の考古発見10大ニュース。これ、文物報などでは既におなじみの規格なんですけれど、一般の方にはなかなか知る機会がなかったのではないでしょうか? これでけでも価値はあるかと思いますよ。

 その他はおなじみの機構紹介等もありますが、国家重点文物保護単位(あちらの国宝・重文)や世界遺産の紹介なども見られます。一度じっくりと見てくださいな。

 ここを見た後は、文物出版社のサイトに行って買い物をするというのが、黄金のコースになるのでしょうか。プリンタが壊れて貧乏人の私には、出来ないことですけれども。

ファイル先頭へ


199901019

◎モバイル『四庫全書』

 年末に東京に行った際、知り合いの方に現在開発中のCD-ROM版『四庫全書』のデモを見せていただきました。お茶の水駅前のマクドナルドで、おもむろにチャンドラ2を取り出し、インストールする男が三人。周りの目が非常に痛かったです。でもまさかあそこで『四庫全書』見ているとは思わなかったろうなあ。

 あんな所で『四庫全書』を見る時代が来るとは、清朝皇帝も想像だにしてなかったに違い有りません。って、当たり前ですね。

 昨年、別な出版社から画像だけを収録した物が出ていましたが、これは『四庫全書』約八億字全文をテキスト化し、それに版本の画像と、作者と書籍の改題を付した、便利な物になる予定です。

 デモで見られたのは、目録の一部と、改題の中身がない書式だけの説明程度でしたが、日本語Windows98でも動くので、お金のある方は買ってみてもいいかと。日本の中国書取扱店での価格は220万円程度です。書籍で買うのの半分くらいです。

 これが有れば、学会の時に「質問でーす」と手を挙げて、「今、発表の間に『四庫全書』全文検索したんですが、あなたの発表では、無いと言っていた用例が、ほれ、こんなにありまっせ!」と苛めることが出来ます。でもこれをやると、確実にその先生を敵に回すので、くれぐれも悪戯は定職が決まってからにしましょう。(^_^;)

 開発元のサイトで、デモCD申し込めましたので、昨年のうちに申し込んでおきました。現在では申し込みフォーム無くなっていましたので、やめたみたいですが。

 このデモCDの隠れたウリは、『四庫全書簡明目録』が全文入っていることです。睡人亭日常の方にもちょっと書いたんですが、テキストと画像が入っているので、すこぶる便利です。中国史辞書の一環として、『四庫全書』の書名辞書を作ろうかと思っていまして、さて目録をどうしようかなあ、買おうかなあ、と考えていました。しか〜し、このデモCDさえ有れば、問題が全て解決。しかも目録としても使えますので、お得感が非常に大です。日本でも『中国史籍解題辞典』等の辞典がありますが、これもテキスト化してくれるとありがたいです。

 後、正続皇清経解でもテキスト化してくれるとうれしいんですが、さてどこかでやってくれないかなあ。

 しかし、これで日本中国学は、また置いて行かれることになっていくんでしょうね。

ファイル先頭へ